前にも書いたのですが、ワールドカップ西ドイツ大会の決勝戦は日本で初めて世界最大のスポーツイベントが衛星生中継され、しかもそれが東京12チャンネル(当時)というローカル放送局によって行われたということが画期的でした。

さすがにこのままでは日本を代表するテレビ局は東京12チャンネルだと海外で認識されてはまずいとNHKが判断したのか、次のアルゼンチン大会は数試合NHKが放送しました。

大会は王様ペレが去った後次の王座に就くのは誰(国)なのか。

”2年前のヨーロッパ選手権を圧倒的な強さで優勝したベッケンバウアー率いる西ドイツ、フェイエノールト、アヤックスでチャンピオンズカップを4連覇しているクライフ率いるオランダ、あるいはペレの10番を引き継いだリベリーノ率いるブラジルが連覇するのか”というのが大会前の評判でした。

トータルフットボール 対 リベロシステム

トータルフットボールはクライフ率いるオランダ代表やアヤックス以来後継者となるチームがながらく現れませんでしたが、数年前のFCバルセロナがクライフの残した遺伝子を引き継いだと思われます。

一方リベロシステムもリベロというポジションはサッカーでは消滅してしまい、今やバレーボールのポジションになってしまいました。

’72年のヨーロッパ選手権でベッケンバウアーは初めてリベロのポジションに着き、圧倒的な強さで優勝しました。(誤解されている人もあるようですが、イングランド大会、メキシコ大会はオベラートと組んで MFを担当していました。)


この二つのシステムは全く異なるようですが、見かたによっては自由に動く一番上手い選手を最前線に置くか最後尾に置くかという違いのようにも思います。(R.フリットもオランダ フェイエノールト、P.S.V.時代はリベロでした。)


偽9番(ただし実際は14番) 対 クラシックタイプの9番(ただし実際は13番)

ヨハン・クライフはポジションとしては一応CFということになっていますが、現在でいう偽9番でピッチの上を自由に動き回ります。一方西ドイツには当時を代表するCF、ワールドカップメキシコ大会の得点王G.ミュラーがいます。 そして結果的にこの試合に決着をつけたのはクラシックタイプの9番でした。

決勝までの道のり

大会が開幕するとオランダ代表は快進撃を続けます。トータルフットボールは未来のフットボールと呼ばれ、1次リーグで対戦したウルグアイ代表などはまるで時代遅れという感じでした。ラインを上げて相手からボールを奪い、空いたスペースにはGKがペナルティーエリアを飛び出し、フィールドプレイヤーのようにプレーします。

対スウェーデン戦で鮮やかに決まるクライフターン 



ブラジル代表を破ったFlying Dutchman と呼ばれたボレーシュート



一方西ドイツは1次予選からもたつきます。開催国と前回優勝国は予選が免除されて無条件で出場できるのですが、逆にこれがチーム作りを難しくします。

ワールドカップは現在は出場国が増えたので一次リーグ、決勝トーナメントという方式ですが、西ドイツ大会の頃は一次リーグ、二次リーグという方式でした。

一次リーグでは東西ドイツ対決で話題になりましたが、東ドイツに破れ2位で通過します。某国の政治家で「2位では駄目なのですか」と言った方がいますが、結果的にこれが良い結果を生みました。

偶然なのか意図的なのか2位で通過したことにより2次リーグはオランダ、ブラジルとは別の組になり、ポーランド、ユーゴスラヴィア、スウェーデンといった欧州勢ばかりの組に入りました。

ここでも苦戦するのですが徐々に調子を上げて決勝に進出します。




決勝戦
ゲームはキックオフから西ドイツが一度もボールを触れることがないうちにクライフがフォクツをかわしてドリブル突破、そしてPKを得ます。

ニースケンスがPKをゴールのど真ん中に思いっ切り蹴りこみ先制します。

結果的にこのあまりにも上手く行き過ぎ先制点を取ったことが明暗を分けたと思います。この得点が西ドイツの闘志に火を付けたようです。

この後西ドイツはオベラートのロングパスを受けたウイングのヘルツェンバインがドリブルでペナルティーエリアに進入し、脚を引っかけられます。
この時解説の岡野さんが「ヘルツェンバインは西ドイツではPK奪取の名人として有名で、多分審判は知らないでしょう。」みたいなことをおっしゃっていました。(home town decision?)



この時当然PKはG.ミュラーが蹴ると思っていたらアフロヘアーの選手が蹴って得点を決めたのは驚きました。(当時はSBをしていたP.ブライトナーです。)

この後、前にも書きましたが、G.ミュラーが得点して勝ち越します。



クライフのマークを担当していたフォクツですが、東ドイツの選手のようにクライフがシューズの紐を結び直している時も横に立っていたわけではなく、チャンスの時はマークを離して最前線まで駆け上がり、惜しいシュートを放ちます。




しかしながら、これが西ドイツ最大のピンチを招きます。チャンスとみて最前線に攻め上がったフォクツがオランダのゲームメーカー ハネヘムに倒されます。そして前線でノーマークのクライフにパスが通ります。この時クライフの前にはベッケンバウアーが一人いるだけでした。
一方オランダはクライフの左にはレップがおり、完全に2対1の状態でした。

この絶体絶命のピンチの時ベッケンバウアーは何を考えていたのか後にインタビューで答えていました。

たしかこんなことを言ってたと記憶しています。「この時クライフに縦に突破されるのが一番嫌だった。それでレップにパスを出すように仕向けた。レップなら(GKの)マイヤーが何とかする。」まあ、本当かどうかはわかりませんが。

この試合の前半クライフはフォクツの密着マークに手を焼き、ハーフタイムで抗議してイエローカードをもらいます。後に「醜く勝つぐらいなら、美しく敗れる」みたいなことを語ったクライフですが、この試合では勝負にこだわります。後半は従来のCFのポジションに入り、ハイクロスにヘディングでフォクツに競り勝ちホストプレーをします。

クライフの作ったスペースにレップが入り再三シュートを放ちますが、悉く外します。

幻の西ドイツの3点目ゴール

後半にグラボウスキーのパスを受けてミュラーが3点目を決めますが、なぜがオフサイドになります。(スローで見ると絶対オンサイドですが、)




前哨戦 '73 チャンピオンズカップ アヤックス 対 バイエルン ミュンヘン

当時は全く知らなかったのですが、前年チャンピオンズカップの準決勝か準々決勝でベッケンバウアー、ミュラーを中心としたバイエルン ミュンヘンとクライフ、ニースケンスを中心とするアヤックスが激突します。

ファーストレグはアヤックスのホームで行われ4-0でバイエルン ミュンヘンに大勝します。前半は0-0でしたが後半GKのマイヤーのミスから先制点を奪ったアヤックスがゴールを重ねます。



この大敗からベッケンバウアーは何を考えたのか?
オランダに勝つには

シュバルツェンベックではクライフを抑え込むのは無理でフォクツをマーク役にする事を決めたのか。

ゲームメーカーはネッツアーではなくオベラートのほうが良いと判断したのか。

前線にミュラーとハインケスを並べるよりグラボウスキー、ヘルツェンバインの両ウイングを配置する。

こんなことでも考えたのでしょうか。(私の想像です)

その後

二年後のヨーロッパ選手権ユーゴスラビア大会はオランダは準決勝で西ドイツは決勝でともにチェコスロバキアに敗れます。決勝でのPK戦はヘーネスが外し、その後有名になるパネンカに最後決められます。

2年後のワールドカップ アルゼンチン大会 クライフは予選には出場しオランダを出場に導きますが、本大会には出場せず代表から引退しました。

一方ベッケンバウアーはU.S.A.のニューヨーク コスモス に移籍し同じくアルゼンチン大会には出場しませんでした。その後クライフもU.S.A.のチームに移籍します。

選手生活の最晩年には二人とも母国でプレーし引退します。

クライフはかってのライヴァルだったフェイエノールトで、ベッケンバウアーは犬猿の仲が噂されたネッツアーがGMをしているハンブルガーS.V.に移籍し、その後引退しました。

Posted by 安儀製餡所 at 22:12 サッカーコメント(0)
「サッカー界には2種類の監督しかいない。首になった監督とこれから首になる監督だけだ」と言われる中で、ハインケスは名監督として穏やかに監督業から引退しました。

今や名監督として有名なユップ・ハインケスですが、現役時代はボルシア・M.Gのエースストライカーとして有名でした。



ハインケスのボルシア・M.G時代

G.ネッツアーがクラブを去った後も活躍しブンデスリーガ三連覇(1975,1976,1977)等、数々の栄光に関わると共に、ブンデスリーガ通算385試合出場220得点を記録した。得点記録に関してはブンデスリーガ歴代3位の成績である。

現役時代は日本ではゲルト・.ミュラーに比べて知名度が低かったのはボルシア・M.Gが国際舞台で優勝していないためと、彼自身ワールドカップ特に西ドイツ大会で活躍できなかったためと思われます。

もっとも彼自身はヨーロッパのカップ戦では64試合に出場し51得点(1試合平均0.80得点)を上げた。これはゲルト・ミュラー、エウゼビオに次ぐ3位の成績であり、UEFA3大タイトル(UEFAチャンピオンズカップ、UEFAカップ、UEFAカップウィナーズカップ)の全てで得点王になっています。

しかしながら、ボルシア・M.Gはヨーロッパのカップ戦で優勝がなく、UEFAカップとヨーロッパチャンピオンズカップの決勝でともにケビン・キーガンのいたリヴァプールFCに敗れます。

西ドイツワールドカップ

西ドイツブンデスリーガのB.ミュンヘンとボルシア・M.Gの2強時代は必然的に代表チームでもゲルト・.ミュラーのライヴァルとなります。

ハインケスは1972年の欧州選手権ではFWの一角としてソ連との決勝戦でも出場していたのですが、1974年の西ドイツワールドカップではゲルト・.ミュラーと併用されず、ほとんど出場機会がありませんでした。

なんとなくベッケンバウアーとネッツアーの対立の被害者のような気もしますが。二人の関係がうまくいっていた1972年の欧州選手権では活躍したのですから。

まあ、当時の西ドイツ代表チームには”中盤の王様”の後ろに”皇帝”がいるという感じでした。(笑)

二人のプレースタイルは私の印象ですが、古い競馬ファンなら聞いたことがあると思いますが((笑)、ゲルト・.ミュラーを鉈(なた)の切味とするとハインケスは剃刀の切味という感じです。

ゲルト・.ミュラー

一方、B.ミュンヘンはクライフの抜けたアヤックスに代わりヨーロッパチャンピオンズカップを1974、75,76と3連覇します。当時は優勝クラブはリーグ優勝しなくとも無条件で翌年も出場できました。

ゲルト・.ミュラーは1970年メキシコ ワールドカップで得点王になり、1972年欧州選手権、1974年西ドイツ ワールドカップでも大活躍します。

特に西ドイツ大会では決勝の対オランダ戦で優勝を決めるゴールをあげます。

ボンホフが右サイドを突破してグラウンダーのクロスを入れます。ミュラーは3人のオランダDFに囲まれていますが、クロスが通りトラップしたボールを自分の後ろに残し、振り向きざまシュート、ブロックに来るDFの股間を抜きます。これが決勝点となり、西ドイツは優勝します。

東京12チャンネル

さて余談ですが、この試合は日本で初めて衛星生中継で放送されたワールドカップの決勝戦でした。しかも驚くことにそれがNHKではなく東京12チャンネル(現在のテレビ東京)だったということです。さらに信じられないことに日本のマスコミには全く話題になりませんでした。(今で云う”報道しない自由”という奴です) さいわいにも私はテレビで見ることができました。

これも余談ですが、この後テレビ東京はヨーロッパ選手権の決勝戦も日本で初めて衛星生中継し、私は伝説のファンバステンのボレーシュートを見ることができました。




1972年欧州選手権

この大会はG.ネッツアーとベッケンバウアーの関係が良好で西ドイツが圧倒的な強さで優勝した大会として有名ですが、ミュラーとハインケスもともにFWで出場していました。この当時は3トップが主流でミュラーがCF、ハインケスは左右のウイングの一角という感じです。

西ドイツがウエンブリーでイングランドに完勝したことで知られている準決勝のファーストレグですが、今回初めてフルで観たのですが、この試合ではハインケスは出場していなく、ヘルト、グラボウスキーという典型的なウイングプレーヤーが出場していました。

https://youtu.be/H8h37NSQTKw

このソ連との決勝戦、特に1点目は当時の西ドイツスター達のそろい踏みという感じで圧巻です。
ベッケンバウアーのドリブル突破からネッツアーのボレーシュート、これがゴールポストにあたりリバウンドをハインケスがシュート、ゴールキーパーがはじいたところをミュラーが押し込みます。

https://youtu.be/PQASKhfs9Cs


この動画はスペインとの親善試合で、ハインケスは2得点をあげます。最後にG.ミュラーが珍しく決定機を外します。



現役引退後

ハインケスは西ドイツやスペインなど様々な国のクラブで監督をつとめ、皮肉なことにB.ミュンヘンの監督として大成功を収めます。

ゲルト・.ミュラーは現役引退後、クラブの監督にはなりませんでした。現役引退後、アルコール依存症になったことも影響したのかクラブの監督という過酷な生活を送ることを選ばなかったのでしょう。

1992年から2014年まで、バイエルン・ミュンヘンサテライトチームのアシスタントコーチを務めていました。華々しかった現役時代からは少し寂しい気もしますが。


Posted by 安儀製餡所 at 18:17 サッカーコメント(0)
リヴァプールFCのプレミアリーグ優勝

今年になってのコロナウイルス過による中断を挟んでイングランド プレミアリーグはリヴァプールFCがなんと30年振りに優勝を果たしました。

正直30年振りと聞いて驚きました。その間、チャンピオンズリーグで優勝もしているので低迷していたわけではなくてっきり何回かはリーグ優勝していると思っていました。

とくに日本には前ボルシア・ドルトムントの監督として馴染みの深いドイツ人監督のクロップがイングランドに渡って優勝に導いたのが話題になっているようです。

ケビン・キーガン

自粛期間中は暇なので昔は三菱ダイヤモンドサッカーでしか見れなかった1970~80年代のスター達をYou Tubeで見ていましたが、今から約40年前、クロップとは全く反対にリヴァプールFCのスター ケビン・キーガンは1976-77シーズン,ヨーロッパチャンピオンズカップでボルシア メンヘングラードバッハを破り、優勝を置き土産に西ドイツ(当時)のハンブルガーS.V.に移籍しました。

特に3点目、あのB.フォクツを振り切ってP,K.を獲得したシーンは有名です。もっともB.フォクツも西ドイツ大会でクライフをマークしてから4年という歳月が流れていたのかとも思いますが。

当時の西ドイツブンデスリーガは、B.ミュンヘンとB.メンヘングラードバッハの2強時代からB.メンヘングラードバッハの1強時代となっていました。(B.ミュンヘンは下降線をたどっており、チャンピオンズリーグに専念という感じでした)

その中でハンブルガーS.V.(以下H.S.V.)は1976~77シーズンのUEFAカップウイナーズカップで優勝し、さらなる躍進を期すため ケビン・キーガンを獲得しました。

当時、イングランドリーグ(プレミアリーグではありません)のスターが西ドイツ ブンデスリーガに移籍することは珍しく、かなり非難もあったようですが新たな挑戦を選択しました。

H.S.V.時代

しかしながら、移籍した1977~78シーズンはH.S.V.は全く不振で、10位に終わり、おまけに古巣のリヴァプールFCと対戦したスーパーカップでも惨敗します。

もっともキーガン自身は1978年バロンドール(欧州最優秀選手)を受賞します。

1978~1979シーズン、悲運の天才G.ネッツァーがGM.に就任しチームを立て直し、ブンデスリーガ優勝を果たします。
キーガンも1978年、1979年と2年連続でバロンドール(欧州最優秀選手)を受賞します。

このシーズンからK.H.ルンメニゲの成長、P.ブライトナーの復帰で復活したB.ミュンヘンとの2強時代となります。

1979~1980シーズンはUEFAチャンピオンズカップ は準決勝でスペインのレアル・マドリードを下し決勝進出を果たしますが、決勝ではイングランドのノッティンガム・フォレストFCに0-1で敗退します。

その後、イングランドに戻り1980-1982 サウサンプトン1982-1984 ニューカッスル・ユナイテッドでプレーしました。

引退後は指導者としてはイングランドのクラブと、イングランド代表の監督を歴任しています。

プレースタイル

豊富な運動量とシュート力は勿論、彼のプレーでよく語られるのはヘッディングの強さです。多分身長は170cmくらいだと思うのですが、並み居る長身のディフェンダーに対し
ポジショニングとジャンプのタイミングの巧みさで競り勝ちます。

次の動画はワールドカップ予選のイングランド イタリア戦で、キーガンが1得点、1アシストと大活躍します。特に1点目のヘッディングは鮮やかです。



歌手 ケビン・キーガン

たまたま珍しい動画を見つけました。

まあ、キーガンは歌手としてはロッド・スチュワートにはかなわないようです。(笑)



1:23からがB.フォクツを振り切るシーンです。

Posted by 安儀製餡所 at 21:33 サッカーコメント(0)

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