昭和の時代 子供が好きなものを 「巨人、大鵬、卵焼き」といったものですが、現代の大阪について世間の人が持っているイメージを
それ風に言えば 「吉本、粉もん、タイガース」となるでしょう。 

まあ、この本は私のように 特に面白い事が言えるわけでもなく、阪神タイガースのファンでなく、お好み焼きをおかずにご飯を食べたりしない大阪の人間にとっては心強い味方です。

大阪=がめつい というイメージは誰が創ったか

「がめつい」というのは」 菊田一夫が創った言葉で、今の大阪のイメージは 菊田一夫、今東光、花登 筺(はなと こばこ)が作り上げたものという意見には納得がいきます。まあこれと勝新太郎、田宮二郎コンビによる映画「悪名シリーズ」もこの辺のイメージ造りに一役買っていったかもしれません。

田辺聖子さんが 花登 筺氏の作品が嫌いだったとか今東光氏が地元では評判が悪かったとかいうのはなにかわかるような気もします。

それに いまや「がめつい」という言葉は生き馬の目を抜く東京のビジネス界に当てはまるものです。

阪神タイガース帝国主義の完成

大阪が阪神タイガース一辺倒になっていった過程というのは私はリアルタイムで体験しています。

まあ、友部正人氏が初めて大阪にやって来たころからスポーツ新聞は「阪神」のことしか書いてなかったのですが、それでも大阪の民放やスポーツ新聞は今みたいな 阪神タイガース一辺倒ということはなくそれなりの公平性は持っていました。

これを崩したのは「中村鋭一氏」の登場と関西経済の地盤沈下でしょう。

要するに東京への一極集中が進む中、関西にプロ野球の球団を4つも養う経済力はなくなってきたのです。

大阪の民放各局としてはこれを打開するために巨人戦という超優良コンテンツを持つ阪神タイガースを持ち上げていく。
1970年代の初頭ちょうどいい具合に大阪の朝日放送に「中村鋭一」という阪神狂(教?)のDJが登場して来た訳です。
そして大阪の他の民放各社もこの流れに乗った。これが大阪の阪神タイガース帝国設立の歴史です。(まあ、私のような南海ホークスのファンからみればですが)

阪神タイガースへの一極集中と同時に、パリーグ3球団の排斥運動をしていったわけです。
結果、パリーグはビッグコミックオリジナルの中にだけ存在する架空の存在になってしまいました。

ただこの本にあるように南海ホークスファンの読売ジャイアンツへの恨みが昭和34年の日本シリーズで巨人に4連勝で勝ってからおさまっていったというのは間違いです。

私の父などは死ぬまで「別所引き抜き」は言うに及ばず、「長嶋茂雄は本当は南海ホークスに来るはずだったのを読売ジャイアンツに横取りされた」とか「スタンカのあの一球は絶対ストライクだった。」とか言ってました(笑)。

南海ホークスは親会社がその沿線の主産業である紡績業の衰退により読売グループに対抗できなくなっていきました。
かわって昭和40年代は親会社の経済基盤がしっかりしている阪急が西本監督の指導の下パリーグの覇者となっていきます。

しかしその阪急もいくら企業努力をしても阪神タイガースしか取り上げないマスコミに嫌気がさしたのか、やがて球団をオリックスに売却し、最後には阪神電鉄を会社ごと吸収してしまいます。(笑)

阪神タイガースこそが球団経営の理想と言えます。お金をかけなくてもマスコミが勝手に人気をあおってくれる。結果どんなに成績が悪くとも球場は満員。優勝しないので人件費は高騰しない。この優良コンテンツを見逃す手はないというものです。断っておきますが、別に阪神タイガースを批判するつもりはありません。(そんな度胸はありません。 まあ、マスコミには多少の恨みはありますが。)

その後、南海ホークスはダイエーに身売りされて福岡に行き、阪急ブレーブスはオリックスブルーウェーブとなり、やがて近鉄バファローズと合併してしまいました。これも時の流れというものでしょうか。


食い倒れ太郎

私のような年齢の人間にとって「食い倒れ太郎」と言えばやはり 上田正樹とサウス・ツウ・サウスの「ぼちぼちいこか」のアルバムジャケットです。



この当時から 食い倒れ太郎 は上田正樹とサウス・ツウ・サウス とともに大阪の象徴でした。(笑)

井上 章一氏はこの歴史的名盤については残念ながらご存知なかったようです。

友部正人 大阪へやって来た



上田正樹とサウス・ツウ・サウス ぼちぼちいこか

ここで全部聞けます。

https://youtu.be/FYSIz5ZK0u0

Posted by 安儀製餡所 at 18:18 本棚コメント(0)

Kathy's Song

2019年11月20日


この「ポール サイモン ソングブック」 のアルバムジャケットに若いポール サイモンと一緒に写っている女性がKathy です。

And as I watch the drops of rain
Weave their weary paths and die
I know that I am like the rain
There but for the grace of you go I
(=But for the grace of you, I go there 慣用句ではGodですが、ここではyouに置き換えられています。)

この唄の最後の歌詞にポール サイモンの当時の気持ちが込められています。

私は小道を流れ、いずれは消えていく雨の雫を見つめている。
私は自分がその雨のような存在なのは知っている。
でも、彼女のおかげでこうして生きて行けるのだ。

ポール サイモンはファーストアルバムの失敗からアート ガーファンクルは大学にもどり、失意のうちに一人イングランドに渡ります。
そこで彼はマーティン カーシーやデイビー グラハム、バート ヤンシュ、 ジョン レンボーン、ジャクソン C. フランク達と出会うことになります、そしてKathyと。

絶望的な状況の中で彼の拠り所はKathyだけだったのでしょう。
彼女のおかげで私たちは彼の素晴らしい歌を後に聴くことが出来たと思うばかりです。

ポール サイモンはご存知の通り本人の知らないところでフォークロック調に変わった「Sound of Silence」が大ヒットし、アメリカに戻り、
サイモンとガーファンクルを再結成し大スターになります。

その後Kathyはどういう人生は歩んだのか。何十年も気になっていました。

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Posted by 安儀製餡所 at 22:46 音楽コメント(0)

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