道明寺粉
それでは、そもそも桜餅に使われている道明寺粉とはなんでしょうか?【以下、つれづれ化学草子(
http://chem-sai.web.infoseek.co.jp/sosi_kareii.htm)を参考】
桜餅 道明寺
道明寺粉とは
和菓子の材料として用いられる道明寺粉は、道明寺(大阪府藤井寺市)の尼が
乾燥した糯米(以後 糒『ほしい』と呼ぶ)を挽き、粉状にしたのが始まりという。主に桜餅などの和菓子の材料とする。河内は良質の「糒」の生産地として知られていました。
道明寺粉
それでは糒(ほしい)とはどういうものでしょう。?
糒(ほしい)
在原業平
在原業平
まず皆さんが糒(ほしい)と聞いて最初に思い出すのが、伊勢物語の「東下り」の段で在原業平が糒の上に涙をこぼしてふやけてしまうという場面だと思います。
米を備えておくので「糒」
糒とは、今で言うところの、携帯用のインスタント食品で 炊いた糯米(もちごめ)を蒸して日に干したもの、水や熱湯を注いでやわらかくして食べ、軍糧あるいは旅の携行食として重用されました。鎌倉時代よりは「糒」の漢字が使われるようになりましたが、それ以前には 「乾飯(かれいい)、干し飯」(ほしめし・ほしいい)」 とも呼ばれていました。もっとも「乾飯」も「ほしいい」と読むことができたのですが、鎌倉時代の頃にはすでに「糒」に変わっていたようです。
乾飯の表記は、日本書紀の「可美乾飯根命(うましからひねのみこと)」や出雲風土記にも見られ、神代から携帯食とされていたことがわかります。 乾飯(かれいい)の読みが古代からあったらしいことは日本書紀の記述からも明らかですが、米を備えておくという意でしょうか、次第に「糒」(ほしいい)と表記されることが多くなってきます。
古くは炊き過ぎた米を保存するためにも利用されました。また、米以外にも粟や黍の糒も存在していました。
兵糧としての糒
乾燥させてあるので軽く、雑菌も繁殖しにくい上、水を加えさえすればすぐに柔らかくなるのですから、旅先の携行食料品としてとても便利なものでした。さて、便利な携帯食品である乾飯は、合戦に備えて調達される兵糧としても用立てられ、兵糧といえばもっぱらこの糒のことを意味しました。
戦場におもむく兵士にとって飯の炊き上げは、敵にその存在を知らせるようなもの。また、あらかじめ炊いて乾燥させた飯は軽く、餅のようにカビることもないので、移動しながらの戦に必要不可欠な携行品でした。
戦況不利でいよいよ籠城となれば、大量の糒が城内に運び込まれたといいます。攻撃する側としては、城内の兵糧が底をつくまで気長に待つ、いわゆる兵糧攻めが行われたわけです。
さて、戦時下では重宝された「糒」も戦国時代が終わって天下泰平の江戸時代となると、兵糧用の使い道がなくなり、菓子などに転用されるようになります。
これ以後の多彩な和菓子文化は兵糧の払い下げとその活用から生まれたものと考えられるわけです。
糒の現在
戦前までは、家庭でも残った白飯をむだにしないために、乾燥させてとっておき、炒り揚げてあられなどにするということが普通に行われており、糒の歴史は米食の歴史そのものに重ね合わせて考えることができます。
しかし、重宝がられてきた糒も食料の安定供給が図られた現在では次第に食べられなくなり、、桜餅などの和菓子
や、「おこし」などのお菓子の材料として、今に至っています。
桜餅 道明寺派 の歴史
桜餅 道明寺派の起源
次にそれでは、上方では桜餅に道明寺粉を使ったことに何か必然性があったのか?考えてみたいと思います。
上方で道明寺粉を使って桜餅を作るようになった起源は次のように言われています。
道明寺(どうみょうじ)は、道明寺粉を用い、桜の葉で包む桜餅。京菓子にも見られ京風桜餅ともいう。
享保二年(1717年)から、評判を博していた江戸の長命寺にならい、平安時代に存在した椿餅(つばいもちひ、つばきもち)という餅菓子の特徴を取り入れて作られた物のようである。大坂では北堀江の土佐屋に天保の頃(1830年から1843年までの期間)に現れたという。
桜餅 長命寺
椿餅(つばいもちひ、つばきもち)
椿餅(つばいもちひ、つばきもち)は平安時代に、軽食代わりとして食べられた餅菓子で次のように説明されています。
平安時代の菓子は唐菓子と言って中国伝来の揚菓子がほとんどだが、桜餅のように団子を植物の葉で挟む形式などが珍しく、この椿餅は日本独自のものでないかと言う見解もあるが定かではない。その説に従うなら、これが和菓子の起源である。
『河海抄』*(かかいしょう)の記述によれば、「もち米を乾燥させて臼でひいて作った餅粉(現在の道明寺粉)を甘葛の汁(甘葛煎(あまずらせん)で練って団子のようにし、椿の葉で包んだもの。」とある。
現代の菓子のように日常的な間食に用いる物ではなく、貴族の館で大規模な蹴鞠の会が催されたときに参加者に配られていた。
*河海抄(かかいしょう)
四辻善成著の全20巻20冊からなる[1]源氏物語の注釈書である。もともとは貞治年間(1362年から1367年まで)の初めの頃に室町幕府第二代将軍足利義詮の命令によって作成し献上したとされたものであり、宮中での源氏物語の講義の内容をまとめたものとされる。現在写本などの形で見られる「河海抄」はその後も四辻善成が長年に渡って考察を書き加えていったものと考えられている。また四辻善成は、後年に本書の秘説32項目を別冊化した『珊瑚秘抄』を作成している。
(ウィキペディアより)
現代の椿餅
現在、椿餅は1月~2月頃、和菓子店の店頭に並ぶことが多いようです。甘味料が甘葛煎(あまずらせん)から砂糖に替わり、餅の中に餡が入るようになり、今に伝えられています。
極端に言えば、これに生地を桜色に着色し、包んでいるものを椿から桜の葉に換えれば
桜餅 道明寺 になります。
なお、桜餅の作りかたは次の通りです。
材料は塩漬けの桜の葉、道明寺粉、小豆の餡。葉の塩は水で抜く。水を吸わせた道明寺粉を蒸し上げる。砂糖は蒸した後で混ぜるか、水に溶いて吸わせる。餅を平らに広げて餡を詰め形を整え、桜の葉で包む。色粉は粉か砂糖水と混ぜる。
椿餅
桜餅 と 柏餅、椿餅
さて桜餅と同様餡の入った餅を植物の葉で包んだ代表的な和菓子があります。
そう
柏餅 です。
柏餅(かしわもち)は、平たく丸めた上新粉の餅を二つに折り、間に餡をはさんで柏の葉などで包んだ和菓子です。
柏餅
元々は東日本の文化の中で育まれたものであり、柏餅が登場したのは徳川九代将軍家重(在位1745年~1760年)十代将軍家治(在位1760年~1786年)のころ。参勤交代で全国に行き渡ったとされています。
したがって年代順に言えば
① 桜餅 長命寺 1717年
② 柏餅 1745年~1786年
③ 桜餅 道明寺 1830年~1843年
となります。
ここからはあくまでも私の推論です。
この順番からは影響としては、椿餅 ⇒ 桜餅 道明寺 とは言いきれず、
椿餅 ⇒ 柏餅 ⇒ 桜餅 道明寺
とも考えられます。
つまり、まず最初、江戸で上方の椿餅の影響を受けて餅を柏の葉で包む「柏餅」を作られる。それから上方で江戸で評判の「桜餅」を作る際に「椿餅」、「柏餅」の特徴を取り入れた「桜餅 道明寺」が生まれた。
さて、前述したように戦国時代では重宝された「糒」も天下泰平の江戸時代となると、兵糧用の使い道がなくなり、菓子などに転用されるようになります。
これ以後の多彩な和菓子文化は兵糧の払い下げとその活用から生まれたわけですが、ここで、江戸と上方の政治、経済的な違いが関係していると考えられないでしょうか?
いくら天下泰平の江戸時代といっても江戸は武士中心の社会であり、当然有事に際しての備えが必要であり上方に比べて糒の需要が多かったと考えられないでしょうか?
逆に上方は、商人中心の社会であり、有事の備えとしての糒の需要はほとんど無くなり、江戸よりも菓子などに転用される度合いが多くなり多彩な和菓子文化が生まれた。
以上、あくまでも私の推論です。
道明寺
最後に 道明寺 そのものについて
大阪府藤井寺市にある真言宗御室派の尼寺で道明寺粉の由来にもなったという。
材料の寺。モチ米であんをくるんだ桜餅を「道明寺」、菓子用の糒を「道明寺糒」、粗く砕いた粉を「道明寺粉」と呼ぶのは、この寺の名に由来します。
道明寺周辺は、
菅原道真 の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。
道明寺では、すでに平安初期、菅原道真の叔母覚寿尼(かくじゅに)によって菓子作りが始められていました。901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。
(ウィキペディアより)
道明寺
菅原道真
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