莨(たばこ)の火

2012年08月21日
 以前、 泉州銘菓 村雨 の記事の中で食野(めしの)長者が上方落語に登場すると書いたのですが、今回は、そのことに少しふれてみたいと思います。

face01 食野(めしの)一族

食野一族は14家。唐金家とは強い絆で結ばれていました。食野の人が唐金の名跡を継いたり、その逆であったりしていました。  食野家の全盛期は江戸中期 寛永十六(一六三九)年から文化十四(一八一七) 年の約百七十年間で、屋号を和泉屋・橘屋とも言っていました。

豪商食野・唐金は、廻船業(かいせんぎょう)を営むとともに(運輸業)、佐野・大坂・江戸に数多くの屋敷・蔵・店を所持し(商業)、これらによって得られた巨万の富を活用した大名貸し等(金融業)も営み、これらを組み合わせた事業ネットワークを全国展開し、さらに巨万の富を築きました。

face01 日本永代蔵にも登場

豪商食野(めしの)・唐金(からかね)は泉州佐野の中でも群を抜く長者でした。
井原西鶴( 江戸時代1642年~1693年の作家)の『日本永代蔵』にも、「このごろ泉州に唐かね屋とて、金銀に有徳なる人出来ぬ。其の名を神通丸(じんつうまる)とて、三千七百石つみても足かろく、、、」と記されています。また、貝原益軒「南遊紀行」にも佐野の商人について「商人多く船を持って家業とす」とあります。さまざまな資料から、佐野の長者たちは廻船業で長者になったことがわかります。

face01 上方落語 莨(たばこ)の火

食野長者が登場する噺として有名なのは 莨(たばこ)の火 です。(他にも一つか二つあったように思います。)

食野家の崩壊は10代目次郎左衛門常貞(寛政元年1789~1852嘉永5年)から始まる。常貞は花街で常識外れの浪費をして、食野の暴れ長者の異名で知られている。その蕩尽ぶりは、落語の、莨(たばこ)の火 になっています。



次に演者の2代目 桂小南 について

face01 2代目 桂小南

2代目 桂小南は、東京で上方落語を演じていた人として有名でした。

2代目 桂小南(1920年1月2日 - 1996年5月4日)は、本名: 谷田金次郎。76歳没。

京都府北桑田郡山国(現在の京都市右京区)の生まれ。日本橋の呉服問屋で丁稚修行をした後、1939年、3代目三遊亭金馬の内弟子となり、山遊亭金太郎を名乗る。入門当初は金馬が東宝専属であったため、寄席の定席には出られず、主に東宝名人会で前座を務めていた。戦時中に召集を受け、1945年に復員。1951年、定席の高座に出るために金馬の口利きで2代目桂小文治の身内となる。1958年9月、8代目桂文楽の好意で2代目桂小南を襲名して真打となる。落語芸術協会所属。出囃子は『野崎』。

京都の訛りが抜けず伸び悩んでいたところ、3代目三遊亭金馬より上方噺に転向するように言われ、これまで習得した江戸噺を封印。以降、富貴、戎橋松竹などに出かけては、ヘタリ(囃子方)を勤める傍ら、上方の若手(3代目桂米朝・3代目桂春團治・6代目笑福亭松鶴・5代目桂文枝ら)に混じって、古老落語家より上方噺を教わった。中には稽古を付けた橘ノ圓都が自信を取り戻し、高座に復帰した例もあった。(ウィキペディアより)

まさに経営セミナーでよく使われている 短所は長所 を体現したわけです。

face01 最後に食野長者と村雨の関係について

今から240年前(1765年・明和2年)、食家の番頭 形部(ぎょうぶ)庄兵衛は奥州(秋田県)から小豆を持って帰り、今までに無い蒸し菓子をつくり主人 食野次郎左衛門に差出したのが始まりで、領主 岡野美濃守が病気で食欲不振のとき、食野家からお見舞いに差し上げました。 殿様はその淡白優雅な風味を賞でられた。手に持てば、ほろほろと粒が落ちるのを、そぼ降る時雨の水滴を連想して、 「時雨」と名付けたと言われています。


同じカテゴリー(泉州銘菓 村雨 (むらさめ) )の記事画像
泉州銘菓 村雨 (むらさめ) 
同じカテゴリー(泉州銘菓 村雨 (むらさめ) )の記事
 泉州銘菓 村雨 (むらさめ) 写真の追加 (2012-02-17 14:59)
 泉州銘菓 村雨 (むらさめ)  (2012-02-11 18:50)
Posted by 安儀製餡所 at 20:53 泉州銘菓 村雨 (むらさめ) コメント(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

ページトップへ