早いもので2022年8月も終わりです。

今年はもはやマスメディアによる人災ではないかと思われるコロナウイルス過とロシアによるウクライナへの侵略戦争。

私のような零細の製餡業者にとっては非常に厳し い状況が続いています。

特に原油価格の高騰による甘味料や諸経費の値上がり、また中国のゼロコロナ政策により輸出がストップしたり、ここ数年来の需要減により海外でのインゲン豆の作付面積が大幅に減少しました。海外の農作物の作付は小豆やインゲン豆は減少し、小麦や大豆に移行しました。

私も今年になってからは得意先との値上げ交渉に奔走しています。

それでも少しづつ日常を取り戻すべく、イベントも復活してきました。

6月には私たちが所属している日餡連の総会が3年振りに東京で開催され出席しました。

7月には和歌山市でキタタニ スイーツ フェスタ 2022 に出展。




また奈良県橿原市で開催された日餡連 関西支部 の総会へ出席しました。

久しぶりに人と会ってお酒を飲むのは楽しいものだと思いました。

その間、得意先や取引先、同業者にも今年は色々な変化がありました。


気づけば8月も終わりです。

今の時期になれば毎年のようにこの歌が聴きたくなります。



今年の4月にお亡くなりになった中川イサトさんの歌です。

日本のアコースティックギター フィンガー ピッキング の第一人者であり、教則本を出版したり、様々な海外のギタリストを日本に紹介してきました。

五つの赤い風船の初期のメンバーで、そのギタースタイルもモダン フォークからブリティッシュ フォーク 、アメリカのオールドタイム、マイケル・ヘッジスのような全く新しいタイプの演奏も取り入れてこられました。

たしかカナダのブルース・コバーンともジョイントコンサートをされたと思います。(古い話なので記憶が曖昧なのですが)

いわば、上方落語における 桂米朝さんみたいな存在でした。上方落語の演者が大なり小なり、直接、間接的に米朝さんの恩恵を受けているように日本でアコースティックギターを弾いている人はその恩恵を受けているのではないでしょうか。



イサトさんへのリスペクトに溢れています。


Posted by 安儀製餡所 at 21:43 音楽コメント(0)

Both Sides Now

2022年07月29日
今年になって CODA という映画の影響で何十年振りかで耳にする機会が多かった Both  Sides Now。 

つい先日 ジョニ・ミッチェルがニューポート フォーク フェスティバル に登場した動画を見つけました。




今年はポール・サイモンも出演していました。


ジョニ・ミッチェルについて私などが偉そうに書くことはないのですが、その波乱万丈の音楽人生にまた一つモニュメントが加わったように思います。

ミスタースポックが歌う Both  Sides Now

ついでに意外なものを見つけました。






Posted by 安儀製餡所 at 18:22 映画音楽コメント(0)
今年一番の話題の映画「サマー・オブ・ソウル」。

ネット上の映画のコメントを読んでいると スティービー・ワンダー がドラムを叩くのを初めて見たというのが多くて少し驚きました。

以前は地上波テレビ(というか昔はこれしかなかったのですが)でも日本での彼のコンサートが放送され、彼がてドラムを叩くシーンが放送されました。まあ元々マルチプレイヤーとして有名でしたから。

エンドロールの後で彼が漫才みたいなことを演じていたのですが今一つ意味が分かりませんでした。(多分彼らが白人に搾取されているということだと思うのですが)

映像からは、結構グタグタだったという話の ウッドストック と違いブラックパンサー党が警備にあたったなど政治色が強くきっちり運営されていたという印象があります。

その出演者も多岐に渡り、ポップス、ゴスペル、ソウル、ブルース、ジャズ、ファンクはもちろん、キューバ、プエルトリコ、南アフリカ共和国出身のミュージシャンも出演していました。

スタックスのミュージシャンが出演していないような気もしますが、これはコンサートがニューヨークで行われたことに関係しているのでしょうか?


ブラックミュージックに精通しているわけではないので、出演したミュージシャン全てを知っているわけではなく、私もフィフス・ディメンションなどはこの映画を見るまで白人のコーラスグループだと思っていました。

マヘィリア・ジャクソンは映画「真夏の夜のジャズ」の頃と比べたら凄い貫禄、このコンサートのハイライトの一つ(見所が多くて一つは選べませんが)スライ&ザ ファミリーストーン、ステイプルシンガーズ、ニーナ・シモンetc.

「デビットラフィンが歌が下手だ」と言われているのは笑ってしまいました。

NY市長ジョン・リンゼイ

このコンサートの立役者の一人でもあるNY市長ジョン・リンゼイ。

白人で長身、ルックスがよくリベラルな共和党員。後に共和党から民主党に禁断の移籍(ルイス・フィーゴか⁉)をします。
当時の共和党のニクソンーキッシンジャーラインには適わないと思ったのでしょうか。いかにもアメリカ人好みのテレビドラマに出てきそうな政治家です。

ウイキペデイアによると後世の評価としてはニューヨーク市の財政破綻の原因をつくった市長としてあまり好ましくないようです。

大統領候補として立候補もしたらしいですが落選しました。政治人生の後半はあまり恵まれていなかったようです。

それに合衆国大統領になるにはニューヨーク市長とか知事というのは他の地域の共感が得にくいようにも思われます。

いずれにしても映画と同様この人物も忘れ去られようとしていたと思ってしまいます。

Posted by 安儀製餡所 at 16:10 映画コメント(0)

岡山産の豆

2021年12月12日
現在NHKで放送されている朝ドラは岡山の和菓子屋さんが登場しますが、

意外と知られていないのですが、岡山県は和菓子の材料に使われる豆の産地として昔から有名です。

和菓子の世界で岡山県産の小豆や黒豆は丹波産と並んで高級品として通っています。

弊社でも現在は岡山県産の豆を使って何種類かの”餡“や”かのこ”を作っています。

一般的によく知られている”丹波~~”と呼ばれている小豆や大豆がありますが、これらの中には岡山県産のものが含まれています。

以前にも書きましたが、これは品種を表示しているということで問題ありません。






以下は豆類協会H.P.からの引用です。

岡山県小豆栽培

岡山県(井笠地域)
岡山県のあずきの栽培面積は、従来500ha~600haありましたが、最近では350ha程度に減少し、全国シェアは約1%となっています。しかし、西日本では依然として大きなあずきの産地であることに変わりはありません。特に、岡山県で生産され、高級和菓子用白餡の原料として使用される希少な品種「備中白小豆」は有名です。あずきの栽培はほぼ県全域でみられますが、ここでは、南西部の井笠地域における栽培スケジュール、栽培作業工程等を紹介します。



参考までに北海道の栽培スケジュールを




岡山県産の豆を使った弊社の商品


弊社では丹波大納言、備中白小豆、丹波黒豆を使っています。

丹波大納言


備中白小豆


丹波黒豆


弊社ではこれらの小豆、黒豆等を使って、粒あん、こしあん(赤、白)、かのこ(大納言、黒豆)を製造、販売しています。



Posted by 安儀製餡所 at 19:33 あんこ豆知識コメント(0)

十勝小豆

2021年12月02日
カナダ小豆





先日、あるお客様と話をしたら「私の所は国産のカナダ小豆で作った”あん”を使っている。」という話になりました。

私としては「国産のカナダ小豆?」という感じです。
よく話を聞いてみると次のように思われていたみたいです。

つまり、カナダ小豆という品種の小豆があり、これが北海道で栽培されている。
しかも加工された粒あんの表示は国内製造と書かれている。

国内製造と表示されているため、てっきり国産(北海道産)のカナダ小豆という品種の豆で作った粒あんと勘違いされていたのです。

以前にも書いたのですが、ルール的にはこの表示は問題ありません。

ここです→http://blog.yasugianko.com/e483702.html

お客様には「カナダ小豆という品種は存在せず、これは日本の小豆をカナダで契約栽培したものを輸入したもので、通常カナダ小豆と呼ばれているものです。表示のルールとしてはカナダ小豆を使っていても日本の工場で製造されれば国内製造で通るわけです。」と説明しました。

十勝小豆




同様に十勝小豆という品種の小豆は存在しません。

よく和菓子とか,あんパンのパッケージに十勝小豆使用とか書かれていますが、私はこれを見るとこの製造者はあまり小豆についてはくわしくないのかなあと思ってしまいます。

まだ”十勝小豆”ではなく”十勝産小豆”なら理解できるのですが。

この十勝小豆という表示は前述したカナダ小豆と同様に誤解されている方も多いのではないでしょうか。

私の個人的な見解としてはこの誤解を生みがちな十勝小豆という表示は好きではありません。

この十勝小豆という表示から考えられる小豆は

①北海道十勝地域で栽培された小豆、ただし、品種、選別基準については不問とする。

②北海道十勝地域で選別作業、袋詰めされた小豆、ただし、生産地、品種、選別基準については不問とする。

③北海道十勝地域から出荷された小豆、ただし、生産地、品種、選別基準については不問とする。

という所です。

基本的には十勝小豆と言えば①のことだと考えている人が多いと思います。

小豆の名称・種類については以前少し書きました。 ここです→http://blog.yasugianko.com/e235985.html

どうしてあまり好きでないかというと生産地を十勝と限定すると選択の幅が狭くなる,
品質よりも十勝小豆というブランドを優先せざるを得ないことになるからです。

たとえば、小豆が不作の年など十勝産の二等(二格)小豆が品薄になった場合でも、北海道の十勝以外で採れた小豆ではなく品質の劣る十勝産小豆を使わざるを得なくなってしまいます。

結果的に消費者により良い商品(あん)を食べてもらうことができなくなります。つまり他の地域で採れた二等小豆があっても、十勝産小豆の等外品を優先するということになります。

ですから個人的にはあまり十勝(産)小豆という表示は好みません。

次に十勝地域について

十勝地域





■十勝(とかち)とは
 北海道を14に分けた「総合振興局」の一つの名称です。

 帯広市を中心とする十勝地域は19市町村からなり、岐阜県や秋田県と同じぐらいの大きさです。北海道の中では道東(どうとう)エリアに位置し、広大な「十勝平野」が広がっています。

 中心都市は帯広市(おびひろし)です。

 「十勝」という地名は、アイヌ語の「トカプチ(管内を流れる十勝川を意味している)」からといわれています。

 北海道の開拓が官主導で進められる中、十勝の開拓は「晩成社」をはじめとした民間の開拓移民によって進められました。

十勝地方は、太平洋岸を除き大陸性気候です。
年間を通じて、全国的にも有数の日照時間に恵まれ、年間降水量は少ない地域です。
昼夜の寒暖の差が激しく、日照時間にも恵まれた十勝では、甘くて美味しい作物が収穫できます。

【春】
乾燥した季節風が、日高山脈を越えて強風となることがあります。

【夏】
海岸部では日中の気温があまり上がりませんが、内陸部では比較的高温が続きます。

【冬】
大陸性寒冷高気圧により低温が続きます。
日高山脈で雪雲が遮られるため降雪量は少なく、晴天の日が続きます







以上はここからの引用です→http://tokachi-love.net/tokachi/

農林水産省「作物統計」平成30年(2018年)によると小豆の生産量で国内における北海道の割合は約93%です。

平成27年度 農林水産省統計部「作物統計」によれば、十勝地域の小豆生産は北海道全体の7割にもなります。(市町村別の統計は平成28年以後は廃止されています。)



Posted by 安儀製餡所 at 22:55 あんこ豆知識コメント(0)

Please be with me

2021年11月27日
Duane Allman の最後のスタジオワークとして有名な Please be with me。

エリック クラプトンやイーグルスのオリジナルメンバーだったランディ マイズナーも歌っていますが、元々は
サザンロックのグループの中では異色の存在だった Cowboy のオリジナルです。 作詞作曲はメンバーの一人 Scott Boyer。

レイドバックなラヴソングで Duane Allman が珍しくドブロギターを弾いています。



Please Be with Me
A SONG FOR MY FATHER, DUANE ALLMAN
By
GALADRIELLE ALLMAN




Galadrielle Allman 彼女が2歳の時、24歳でDuane Allman は亡くなりました。したがって父の足跡を書いたこの本は、彼女自身の記憶ではなく調査によって書かれたと言えます。

彼女の名前は当時ヒッピーたちの間で流行っていた『指輪物語』の登場人物の一人(映画ではケイト ブランシェットが演じていた)からDuane Allmanが名付けたそうです。

本のタイトルにAllman Brothers Band の曲ではない "Please be with me" をつけたことにより著者の父に対する想いが伝わってきます。

この本は翻訳されていないので、英語が苦手な私には厳しいので、せめて曲の "Please be with me" を訳すことにしました。

 
この歌で使われている単語は簡単なものばかりで、受験英語みたいな文章が多くなんとなく分かったような気になっていたのですが、
昔から今一つ意味が分かりませんでした。まあ、歌詞の意味なんかどうでもよいと思っていましたが。

曲名 Please be with me の意味


慣用的に使われる言葉で ”Are you with me?" があります。「分かっている?」という感じです。

これは "Do you understand?" を柔らかくした表現で日常的に後者よりよく使われます。
後者はかなり威圧的な表現で親しい間柄では使われることは少ないとされています。

これから類推すれば、”Please be with me” は「分かってくれるかい」みたいな感じでしょうか。(勿論、「一緒にいてくれないかい」でも良いとは思います。) 

Please be with me

Oh my word, what does it mean?
Is it love or is it me
That makes me change so suddenly?
Looking out, feeling free.

それが愛なのだろうか?それとも本当の私なのだろうか?
言葉が一瞬で私を変えてしまう。
外を眺めているだけで、自由な気持ちになる。

Sit here lying in my bed,
Wondering what it was I'd said
That made me think I'd lost my head,
When I knew I lost my heart instead.

ベッドに腰掛けながら不思議に思うんだ、
私が思いもよらないことを言ってしまったことに驚いているんだ、
自分が(君に)夢中だと気付いた時に。

[Chorus:] 
Won't you please read my signs, be a gypsy.
Tell me what I hope to find deep within me.
Because you can't find my mind, please be with me.

「ジプシーになって、私の心を読んでくれないかい。」
「私が本当に望んでいること教えてくれないかい。」
「なぜなら君のままなら私の気持ちは分からないよ、
そうだろう、分かってくれるかい。(一緒にいてくれるかい)」

Of all the better things I've heard,
Loving you has made the words
And all the rest seem so absurd,
'Cause in the end it all comes out I'm sure.

私は今まで素晴らしい言葉を聞いてきたけど
”loving you"は他の言葉をつまらなく感じさせてしまう。
だから最後にはきっとうまくいくよ。

[Chorus:]
Won't you please read my signs, be a gypsy.
Tell me what I hope to find deep within me.
Because you can't find my mind, please be with me

「ジプシーになって、私の心を読んでくれないかい。」
「私が本当に望んでいること教えてくれないかい。」
「なぜなら君のままなら私の気持ちは分からないよ、
そうだろう、分かってくれるかい。(一緒にいてくれるかい)」

Scott Boyer

彼は2018年 2月 13日に亡くなっています。全く知りませんでした。

彼については音楽評論家の天辰保文さんのサイト In-Cahoots で生前のScott Boyerと交わしたインタビューが載っています。

こちらです。
  ↓
https://in-cahoots.net/intv/intv-sb/













Posted by 安儀製餡所 at 16:26 音楽コメント(0)

ボイラー入替え

2021年10月21日
2006年1月18日から稼働していたボイラーですが、2021年16~19日にかけて入替工事を行いました。

通常ボイラーの保証期間が9年であることを思うと、平成から令和にかけて15年と半年よく働いてくれました。



hana3 旧ボイラー 2006年1月18日~2021年10月15日

       

hana3 新ボイラー 2021年10月19日~

       


新しいボイラーも長持ちしてもらいたいものです。
 

Posted by 安儀製餡所 at 20:23 安儀通信コメント(0)
今年の春は『マンボウ』という単語が巷を賑わしました。

あまりにもマンボウ、マンボウと騒がしいため、永遠の眠りについていた北杜夫さんが「我が復活の時が来た」とばかりに、天国から躁状態のまま降りてきて、阪神タイガースを後押ししているのではないかと思うぐらい今年の阪神タイガースは好調です。

生前、北杜夫さんは生粋の阪神狂として有名でした。

ということで,北杜夫さんに敬意(?)を表して『マンボウ阪神狂時代』を読んでみました。

阪神タイガースのファンでない私のような人間が思うに今年好調の要因はやはり金本監督時代からの「生え抜きの選手を育てる」という方針がここに来て実を結んできたのではないでしょうか。それに新戦力の佐藤選手や中野選手が加わった、そんな感じでしょうか。

大阪に住んでいると阪神ゴロみたいなマスメディアの人間(要するに民放の局アナ)や営業的な阪神ファンの芸能人にウンザリさせられ、彼らが煽って阪神タイガースのファンなら免罪符を持っているがごとく傍若無人な行動をする人を多く見てきました。

しかしながら、この本を読んでみて、改めて阪神狂というのは北杜夫さんのようなインテリも、私が知っている泉州のあまり上品と言えない人たちも周囲に迷惑を掛けるという点では同じようなものだということがよ~く分かりました。(笑)


もしご健在なら、今頃はテレビの前でヨガを毎日のように行い、ご家族や周囲の人に大変な迷惑をかけていたことでしょう。


ダイナマイト打線

まあ阪神タイガースのファンではない私のような人間には理解できない魅力、特に戦後復活したプロ野球で一世を風靡した「ダイナマイト打線」は魅力的だったようです。そのダイナマイト打線の中心が藤村富美男氏でした。

最近はそうでもないですが、一昔前は関西では「ストーブリーグ」の主役として有名でした。

この悪しき伝統の基礎を築いたのが何と言っても 藤村富美男氏(兄) でした。以後このチームはスター選手同士、あるいはスター選手と監督、次期監督候補同士の対立で毎年のようにシーズンオフのスポーツ新聞の売り上げに貢献しました。

北杜夫さんも藤村富美男氏の人間性や監督としての評価は厳しいものがあったようです。吉田義男選手との鉄壁の三遊間で有名だった三宅選手の新人時代の起用についてはかなり批判的に書かれていました。

この本で一番興味を惹いたのは前岡投手の件でした。

甲子園のスター 新宮高校の前岡

一昔前甲子園を賑わした剛球投手といえば、尾崎、池永、江川投手らと共に必ず名前が挙がったのが新宮高校の前岡投手です。

当時はドラフト制度がなく、各球団の激しい争奪戦の末、阪神タイガースに入団しました。しかしながらプロ野球選手としては大成することなく引退しました。

この本によるとその原因は次のように書かれています。(以下引用です)

選手としては傑出していた藤村は、監督としては駄目で、この新人に嫉妬したのかどうか、オープン戦でろくにピッチングもさせずに、いきなり登板させた。するとフォアボール続出で、彼は初回にしてノックアウトされてしまった。.

.............その藤村に乱暴に使われてすっかりダメになってしまった前岡をなおかつ私は信じていた。やがてはエースになってくれる投手だと思っていた。

ところが前岡はぜんぜん登板もしなくなった。六月の初め、阪神の投手が片端から風邪を引いて休んでしまったとき、さすがに使われたが、その成績はさんざんなものであった。

私は、ほとんどの評論家があれほど買っていた前岡がすっかりダメになってしまったのは、オープン戦のショックでノイローゼになったものと判断した。


一方ウイキペディアには次のように書かれています。
入団当初に肩を痛めてしまう。青木(大阪タイガーススカウトの青木一三)によると、キャンプ中の2月におこなわれた有料紅白戦に、親会社の希望で先発させたために肩に違和感が出てきたことが原因であるという。これが尾を引き、1年目は僅か5試合の登板に終わる。

青木は監督の藤村富美男が親会社の要望を断れなかったと述べている。なお、青木は自著『ここだけの話 プロ野球どいつも、こいつも……』(ブックマン社、1989年)の中では、卒業式後に夜行列車でチームに戻った直後の大毎オリオンズとのオープン戦に先発させられて1死も取れずに降板し、藤村から「700万円ドブに捨てたようなもんや」と言われたと記している。

青木は「夜行で着いたばかりの登板は殺生だ。勘弁してやってほしい」と藤村に頼んだが聞いてもらえなかったことを今でも恨んでいると同著で告白している


もちろん、前岡投手は甲子園大会での大活躍による肩の酷使のためにプロ入り後活躍出来なかったという可能性もありますが、上記を総合すると前岡投手は藤村監督から肉体的にも精神的にも追い詰められていったとも推測されます。

ドクトルマンボウの診断

北杜夫さんは前岡投手をノイローゼと診断し、彼を治してやろうと阪神球団あてに便箋10枚の長文の手紙を書いた。「人はいかにしてノイローゼになるか、そのノイローゼはどのような心構えで治せるか」という内容でしたが、残念ながら匿名であったため、おそらく球団は面倒くさいファンの一人だと思い相手にしなかったのでしょう。

本名かペンネームならばいくら阪神球団でも無下に扱うことはなかったでしょう。

もし北杜夫さんが前岡投手のノイローゼ(現在ならイップス)を治していたら、精神医学の権威として名声を博したでしょう。
もっとも阪神狂の北杜夫さんのことですからノイローゼで低迷している他球団の選手に活躍されては困ると考え、論文など発表せず、阪神の選手だけを治療したかもしれません。(笑)






Posted by 安儀製餡所 at 21:37 本棚コメント(0)
前にも書いたのですが、ワールドカップ西ドイツ大会の決勝戦は日本で初めて世界最大のスポーツイベントが衛星生中継され、しかもそれが東京12チャンネル(当時)というローカル放送局によって行われたということが画期的でした。

さすがにこのままでは日本を代表するテレビ局は東京12チャンネルだと海外で認識されてはまずいとNHKが判断したのか、次のアルゼンチン大会は数試合NHKが放送しました。

大会は王様ペレが去った後次の王座に就くのは誰(国)なのか。

”2年前のヨーロッパ選手権を圧倒的な強さで優勝したベッケンバウアー率いる西ドイツ、フェイエノールト、アヤックスでチャンピオンズカップを4連覇しているクライフ率いるオランダ、あるいはペレの10番を引き継いだリベリーノ率いるブラジルが連覇するのか”というのが大会前の評判でした。

トータルフットボール 対 リベロシステム

トータルフットボールはクライフ率いるオランダ代表やアヤックス以来後継者となるチームがながらく現れませんでしたが、数年前のFCバルセロナがクライフの残した遺伝子を引き継いだと思われます。

一方リベロシステムもリベロというポジションはサッカーでは消滅してしまい、今やバレーボールのポジションになってしまいました。

’72年のヨーロッパ選手権でベッケンバウアーは初めてリベロのポジションに着き、圧倒的な強さで優勝しました。(誤解されている人もあるようですが、イングランド大会、メキシコ大会はオベラートと組んで MFを担当していました。)


この二つのシステムは全く異なるようですが、見かたによっては自由に動く一番上手い選手を最前線に置くか最後尾に置くかという違いのようにも思います。(R.フリットもオランダ フェイエノールト、P.S.V.時代はリベロでした。)


偽9番(ただし実際は14番) 対 クラシックタイプの9番(ただし実際は13番)

ヨハン・クライフはポジションとしては一応CFということになっていますが、現在でいう偽9番でピッチの上を自由に動き回ります。一方西ドイツには当時を代表するCF、ワールドカップメキシコ大会の得点王G.ミュラーがいます。 そして結果的にこの試合に決着をつけたのはクラシックタイプの9番でした。

決勝までの道のり

大会が開幕するとオランダ代表は快進撃を続けます。トータルフットボールは未来のフットボールと呼ばれ、1次リーグで対戦したウルグアイ代表などはまるで時代遅れという感じでした。ラインを上げて相手からボールを奪い、空いたスペースにはGKがペナルティーエリアを飛び出し、フィールドプレイヤーのようにプレーします。

対スウェーデン戦で鮮やかに決まるクライフターン 



ブラジル代表を破ったFlying Dutchman と呼ばれたボレーシュート



一方西ドイツは1次予選からもたつきます。開催国と前回優勝国は予選が免除されて無条件で出場できるのですが、逆にこれがチーム作りを難しくします。

ワールドカップは現在は出場国が増えたので一次リーグ、決勝トーナメントという方式ですが、西ドイツ大会の頃は一次リーグ、二次リーグという方式でした。

一次リーグでは東西ドイツ対決で話題になりましたが、東ドイツに破れ2位で通過します。某国の政治家で「2位では駄目なのですか」と言った方がいますが、結果的にこれが良い結果を生みました。

偶然なのか意図的なのか2位で通過したことにより2次リーグはオランダ、ブラジルとは別の組になり、ポーランド、ユーゴスラヴィア、スウェーデンといった欧州勢ばかりの組に入りました。

ここでも苦戦するのですが徐々に調子を上げて決勝に進出します。




決勝戦
ゲームはキックオフから西ドイツが一度もボールを触れることがないうちにクライフがフォクツをかわしてドリブル突破、そしてPKを得ます。

ニースケンスがPKをゴールのど真ん中に思いっ切り蹴りこみ先制します。

結果的にこのあまりにも上手く行き過ぎ先制点を取ったことが明暗を分けたと思います。この得点が西ドイツの闘志に火を付けたようです。

この後西ドイツはオベラートのロングパスを受けたウイングのヘルツェンバインがドリブルでペナルティーエリアに進入し、脚を引っかけられます。
この時解説の岡野さんが「ヘルツェンバインは西ドイツではPK奪取の名人として有名で、多分審判は知らないでしょう。」みたいなことをおっしゃっていました。(home town decision?)



この時当然PKはG.ミュラーが蹴ると思っていたらアフロヘアーの選手が蹴って得点を決めたのは驚きました。(当時はSBをしていたP.ブライトナーです。)

この後、前にも書きましたが、G.ミュラーが得点して勝ち越します。



クライフのマークを担当していたフォクツですが、東ドイツの選手のようにクライフがシューズの紐を結び直している時も横に立っていたわけではなく、チャンスの時はマークを離して最前線まで駆け上がり、惜しいシュートを放ちます。




しかしながら、これが西ドイツ最大のピンチを招きます。チャンスとみて最前線に攻め上がったフォクツがオランダのゲームメーカー ハネヘムに倒されます。そして前線でノーマークのクライフにパスが通ります。この時クライフの前にはベッケンバウアーが一人いるだけでした。
一方オランダはクライフの左にはレップがおり、完全に2対1の状態でした。

この絶体絶命のピンチの時ベッケンバウアーは何を考えていたのか後にインタビューで答えていました。

たしかこんなことを言ってたと記憶しています。「この時クライフに縦に突破されるのが一番嫌だった。それでレップにパスを出すように仕向けた。レップなら(GKの)マイヤーが何とかする。」まあ、本当かどうかはわかりませんが。

この試合の前半クライフはフォクツの密着マークに手を焼き、ハーフタイムで抗議してイエローカードをもらいます。後に「醜く勝つぐらいなら、美しく敗れる」みたいなことを語ったクライフですが、この試合では勝負にこだわります。後半は従来のCFのポジションに入り、ハイクロスにヘディングでフォクツに競り勝ちホストプレーをします。

クライフの作ったスペースにレップが入り再三シュートを放ちますが、悉く外します。

幻の西ドイツの3点目ゴール

後半にグラボウスキーのパスを受けてミュラーが3点目を決めますが、なぜがオフサイドになります。(スローで見ると絶対オンサイドですが、)




前哨戦 '73 チャンピオンズカップ アヤックス 対 バイエルン ミュンヘン

当時は全く知らなかったのですが、前年チャンピオンズカップの準決勝か準々決勝でベッケンバウアー、ミュラーを中心としたバイエルン ミュンヘンとクライフ、ニースケンスを中心とするアヤックスが激突します。

ファーストレグはアヤックスのホームで行われ4-0でバイエルン ミュンヘンに大勝します。前半は0-0でしたが後半GKのマイヤーのミスから先制点を奪ったアヤックスがゴールを重ねます。



この大敗からベッケンバウアーは何を考えたのか?
オランダに勝つには

シュバルツェンベックではクライフを抑え込むのは無理でフォクツをマーク役にする事を決めたのか。

ゲームメーカーはネッツアーではなくオベラートのほうが良いと判断したのか。

前線にミュラーとハインケスを並べるよりグラボウスキー、ヘルツェンバインの両ウイングを配置する。

こんなことでも考えたのでしょうか。(私の想像です)

その後

二年後のヨーロッパ選手権ユーゴスラビア大会はオランダは準決勝で西ドイツは決勝でともにチェコスロバキアに敗れます。決勝でのPK戦はヘーネスが外し、その後有名になるパネンカに最後決められます。

2年後のワールドカップ アルゼンチン大会 クライフは予選には出場しオランダを出場に導きますが、本大会には出場せず代表から引退しました。

一方ベッケンバウアーはU.S.A.のニューヨーク コスモス に移籍し同じくアルゼンチン大会には出場しませんでした。その後クライフもU.S.A.のチームに移籍します。

選手生活の最晩年には二人とも母国でプレーし引退します。

クライフはかってのライヴァルだったフェイエノールトで、ベッケンバウアーは犬猿の仲が噂されたネッツアーがGMをしているハンブルガーS.V.に移籍し、その後引退しました。

Posted by 安儀製餡所 at 22:12 サッカーコメント(0)
今年も春のゴールデンウイークは緊急事態宣言下で過ごすことになってしまいました。
昨年同様私どものような食品関係のものにとっては厳しい状況になっています。

やはり人が動かないことには私どもが関係する商品は売れません。

そんな中でも今年は春の珍事というか例年にはないことがありました。

次の事は私は専門家ではありませんので、あくまでも私の推測です。今年流行りの”エヴィデンス”はありません。

1.花粉症の症状がでなかった

この20年ほど春になれば花粉症に苦しめられ憂鬱でした。それが今年は花粉症の症状が全く出ませんでした。

花粉症対策として特に例年と違ったことを行ったわけではありませんでした。

そこで思い当たることは、コロナウイルス対策として、例年以上に帰宅時の手洗いを頻繁に行なった。また外出時のマスクの着用。訪問、及び訪問者数の減少。

案外コロナウイルス対策として行なったこれらが花粉症にも効果があったのではないかと自分では思っています。

2.ノロウイルスによる食中毒が話題にならなかった

例年冬になるとマスコミを賑わすノロウイルスの食中毒、少なくとも今年は私がニュースで見ることはありませんでした。

原因として推測されるのは

①マスコミお得意の「報道しない自由」があったのではないか。

実際にノロウイルスによる食中毒の件数が減少したのかどうかは私には知る由もありません。コロナウイルスによる煽り報道に血道をあげていたのでニュースとしては無視したのかと推測できます。

②次に推測できるのはコロナウイルス対策として消費者の手洗いの回数が増えたことが考えられます。

コロナウイルス過であっても私たち製造業者の衛生管理は従来と特に変わったことをするわけではありません。つまり消費者サイドでの感染が抑えられたのかもしれません。

3.最後はインフルエンザの流行が抑えられたことです。

まあ、これもあくまでも私の感想ですが、あまり耳にすることはありませんでした。

考えられる理由としては例年以上に多くの人が予防接種をうった、コロナウイルス対策がインフルエンザの流行を防ぐのに効果があった。

どなたか検証してもらえないでしょうか。

春の珍事

最後に大昔の野球映画について、これは子供の頃、父に教えられてテレビで放送されたのを観たのですが、面白かったことは憶えています。

https://youtu.be/7x6Q7jQxfy8


そういえば、おなじように古い野球映画の「蘇る熱球」とかも同時期に観ました。

実はブログを書く前に「春の珍事」でGoogle検索したら「春の珍事 阪神タイガース」というのが出てきて思わず笑ってしまいました。

とにかく今年は阪神タイガースは絶好調です。


タグ :春の珍事

Posted by 安儀製餡所 at 19:30 その他コメント(0)

桜あん

2021年02月24日
どうでもいい話ばかり書いているので、たまには弊社の商品の紹介をします。




2~3年前からオリジナルの”桜あん”を製造、販売しています。





弊社の”桜あん”のセールスポイントは

①従来の桜あんの中に桜の花びらに見立てた”白小豆かのこ”を散りばめています。

②国産の桜葉のみを香り付けに使用しています。

次の写真は使用例として上生菓子を職人さんに作ってもらったものですが、もちろんそのままあんパンや三笠、最中、あんみつなどにもご使用いただけます。



桜花一輪
漉し餡の浮島と桜あんの浮島を合わせ、うえに桜の花をあしらい錦玉で留めています。


桜薯蕷
薯蕷饅頭の桜あんを包み上部に塩漬けの桜花をのせています。


春景色
緑色の浮島に桜あんの羊羹を合わせました。


タグ :桜あん

Posted by 安儀製餡所 at 22:58 安儀通信コメント(2)

Chuck Leavell

2021年02月22日



先日WOWOWで放送された「ロックンロールプレジデント」
第39代アメリカ合衆国大統領ジミー・カーター。リベラルな姿勢を貫く彼は、同時に大の音楽好き。大統領在任時の1978年にホワイトハウスにミュージシャンを招いてコンサートを開いた最初の大統領でもある。「アメリカを団結させるものの一つが、僕らが共有し愛する音楽だ」と語る彼は、96歳となった現在も幅広いジャンルのアーティストたちとの交流を続けている。
そんなロックンロール・プレジデント、ジミー・カーターの音楽への情熱と、ボブ・ディラン、U2のボノ、ウィリー・ネルソンら著名ミュージシャンたちとの交友関係にスポットを当てたドキュメンタリー。ほかにポール・サイモン、ナイル・ロジャース、ガース・ブルックス、そして故人となったグレッグ・オールマンも出演。音楽が文化として深く根付くアメリカの一面を知る、興味深いドキュメンタリーといえるだろう。


Chuck Leavell

番組紹介ではB・ディランやウイリー・ネルソンの名前が出ていたのですが、実際は結構、特に前半は元Allman Brothers BandのChuck Leavell のインタビューが中心に進行されていました。(もっともこの時点ではG.Allmanは亡くなっていたので彼にインタビューすることは無理だったこともありますが。)

いまやローリングストーンズのサポートメンバーが彼のキャリヤの中では一番長いとは思います。私も彼を実際に観たのはローリングストーンズの初来日の時でした。

しかしながら、私にとってはChuck Leavellといえば亡くなったDuane Allman に代わって「Brothers&Sisters」から Allman Brothers Band に参加しバンドに従来にはないカラーを持ち込んだキーボープレイヤーとなります。

Allman Brothers BandもDuaneに代わるギタリストを補充するのではなく、キーボードプレイヤーを選択したわけです。これによってバンドの特徴であったツインリードギターによるハーモニーは無くなったのですが、やはりDuaneに代わるギタリストをみつけるのは難しかったのでしょう。代わりにChuck_Leavellの流麗なピアノソロがバンドのもう一つの目玉になりました。(個人的には一緒にLes Dudekも参加すれば良かったのにと思いますが)

特にロック インストロメンタルの傑作 Jessica のピアノソロは彼の存在を世界に知らしめました。

https://youtu.be/vTOozRAJ8dU

彼自身がJessicaのチュートリアル動画を創っています。
動画では「ディキー・ベッツがジャンゴ・ラインハルトがどうのこうの」と話していました。言われてみればJessicaは「Miner Swing」をメジャースケールでロックヴァージョンにしたもののような気がします。

https://youtu.be/n3IApdmQFTY

次の動画は故G.AllmanがStatesboro Bluesの育ての母とも言えるタジ・マハール(もちろん生みの母はBlind Willie Mactell)と共演したものでChuck LeavellやJack Pearsonのご機嫌な演奏が聴けます。

https://youtu.be/duWv1eMNdrk

ジミー・カーターとAllman Brothers Band


当時全米では全く無名だった彼が民主党の大統領候補になれたのはAllman Brothers Band の功績が大であったと言えます。

むかしの音楽雑誌に出ていた記事を思い出しました。

ジェリー・ブラウンと争った民主党の代表選でイーグルスやリンダ・ロンシュタットが彼を推し、オールマンズやマーシャルタッカーバンドがジミー・カーターを推した。さながらアサイラムとカプリコーンの新興レーベルの争いみたいなことが書かれていました。

ところが選挙期間中にオールマンズはグレッグがコカインの所持で逮捕され、司法取引に応じて、仲間を当局に売ったことから他のメンバーが怒り解散。まあ今から思えば星の数ほどある麻薬と関係のあったロックバンドの中でオールマンズを選んだのは何か政治的な思惑があったような気もしますが。
この事件がなくてもバンドの方は解散間近という感じでしたので、個人的にはそれほど驚きませんでした。

このあとグレッグとディキー・ベッツはそれぞれのバンドを結成、Chuck Leavellはオールマンズのラマー・ウイリアムス、ジェイモとシー・レベルを結成します。

Simple Man

ジミー・カーターに関してはこの時のChuck Leavellの話が一番興味深かったと言えます。

彼はこう言えたはずだ「ごめんグレッグ、ごめんオールマンズ。これ以上は危険すぎる。今までありがとう、グッバイ」
でも見捨てなかった。

まあ「グッドワイフ」に登場するアラン・カミング扮する選挙参謀のイーライなら卒倒しそうな行動をとったわけです。

結局このあたりが「大統領としてはどうなのか?」とも思いますが、ある意味彼の人物像を表しているのかもしれません。

政治の事はよくわかりませんが、彼の任期中に起こった様々な事件、「イラン大使館人質事件」「ソ連のアフガン侵攻」「モスクワオリンピック不参加」などの判断にも表れていたような気もします。

彼の就任式の模様が番組で紹介されていましたが、今から思えば当時は随分大らかな時代だったと思います。

タカ派で有名な共和党支持のジョン・ウエインがスピーチしたりするのはどういう経緯があったのかわかりませんが、国家内の対立が増している米国の現状を考えれば複雑な気持ちになります。

私が記憶している限りでは民主党内で対立候補を応援していたリンダ・ロンシュタットも出演して歌ったと思います。


就任式のパーティーには招待されていないCS&Nもやって来たとのことです。やはり孤高の人ニール・ヤングは行かなかったのは彼らしいと思います。もっとも Southern Man を創った張本人としては大変行きづらいでしょう(笑い)。

このドキュメンタリー映画の中で一番最後に流れていた Lynyrd Skynyrd の Simple Man 。カーター氏には一番ふさわしいかと思います。

https://youtu.be/sMmTkKz60W8

The Tree Man

オールマンズ解散後結成したシー・レベル

非常に評価の高いグループだったのですが数枚のアルバムを創った後解散。その後Chuck Leavellはローリングストーンズのサポートメンバーとなりました。

現在はローリングストーンズのサポートメンバーとしての活動をメインにミック、キース、ロニーのソロ活動もサポートしたり、クラプトン、ジョージ・ハリスン、デヴィッド・ギルモア、ガヴァメント・ミュール、ジョン・メイヤーのツアーとレコーディングにも参加しています。

もちろん、むかしの仲間オールマンズとも。

またアメリカの環境林業界では、優秀な木材生産者(tree farmer)として「ナショナル・ツリー・ファーマー・オブ・ザ・イヤー(National Tree Farmer of the Year)」にも任命されており、リーヴェルは「1本の木を伐採したら、後世のために2本の木を植えよ」と語っています。

まあ悠々自適とも言える暮らしで羨ましいです。

彼に関するドキュメンタリーも創られたそうです。



The Brothers 2020


次の動画は2020年3月にM.S.G.で行われたAllman Brothers Band の結成50周年(諸事情で途中だいぶ抜けていますが(笑い))記念コンサートです。

ここにChuck Leavellも参加し、なんとBlue Skyではリードヴォーカルをとっています。(ちょっと頼りないですが)

Warren Haynes に「せっかく来たんだから歌わせろ」と言ったんでしょうか。

この後世界が一変してしまうとは誰も思っていなかったでしょう。

https://youtu.be/OVOEJeZJOys





Posted by 安儀製餡所 at 17:18 音楽コメント(0)
今年のプロ野球が幕を閉じてしばらくたちますので、もうあまり話題になることもないと思いますが、今年の日本シリーズもソフトバンク ホークスが読売ジャイアンツを2年連続で4勝0敗で破りました。

それと同時に阪神タイガースにとっては忘れたいであろう(気にしていないという説もありますが) 33-4 という数字がネット上で話題になっていました。

ソフトバンク ホークスでもこの数字を破るのは難しかったようです。

私のような素人のパ・リーグファンの人間からの印象としては、「このくらい実力に差があっても既存のマスメディアの偏向報道、つまりセ・リーグ優遇、パ・リーグ蔑視という姿勢は来年も変わらないだろう。」ということです。

今も関西の既存メディアは相変わらず阪神タイガース一色です。


この10年間でのパ・リーグ優位の原因について色々な見解が出て来ました。

DH制を採用しているためだとか、なかにはパ・リーグの方がドラフトのくじ運がいいためだというような噴飯ものの見解もありました。

DH制

戦術レベルではどう考えてもDH制を採用している方が不利でしょう。
黄金時代の西武ライオンズや古いですが阪急ブレーブスを考えればわかります。

この当時西武ライオンズにはデストラーデというDHに強打者がいて、秋山、清原とクリーンアップを組んでいました。
日本シリーズでアウエーで戦うときはDHが使えません。この場合選択肢としては

①清原三塁、デストラーデ一塁の布陣を引く。この場合守備に不安要素を二つ抱えます。
②デストラーデをスタメンから外す。この場合5番打者を外すというシーズン中とは全く別な戦い方をしなければなりません。

一方パ・リーグのホームの時はDH制が採用されましたが、この時セ・リーグは少なくとも投手よりましな打者を一人打席に立たせればよいのであり、余程無能な監督で無い限りそれほどマイナスになる訳ではありません。

したがって、日本シリーズではどう考えてパ・リーグが不利な条件で戦っていたと言えます。(まあ、パ・リーグファンである私の見解ですが)

阪急ブレーブスも黄金時代の頃は日本シリーズでは4番打者の長池選手を外して戦っていました。

DH制の影響

選手の能力向上という面からみると効果があると専門家と呼ばれる人達が指摘しています。
まあ、素人ですから何とも言えませんが、そんな気もします。

現在のNPBのスター選手の出身大学も随分様変わりしました。

昭和から平成の初期くらいまで、大卒でプロ野球選手になれるのは東京六大学、東都大学リーグ、あるいは関西六大学といった限られた人達だけでした。

それが首都大学野球リーグや東北福祉大学出身の選手がプロ入りし活躍します。いまや全国の大学野球の出身選手がプロ入りし活躍しています。

現在、大学野球でDH制を採用していないのは東京六大学野球連盟と関西学生野球連盟だけです。

もちろん東京六大学はアマチュア野球界最高のエリートコースであることは今後も変わらないと思いますが、この二つのリーグが旧態依然としている間に他の地方の大学の選手が力をつけてきてプロ入り後活躍しているのは事実でしょう。

東京六大学野球連盟と関西学生野球連盟は、入替え制がないとか東大や京大が属していると共通点が多くまた、伝統があり才能や有名選手が多く入学し他のリーグよりレベルが高いのは確かでしょう。

しかしながら、プロ入り後活躍している選手をみていると以前と比べると大学時代にDH制採用していたことが選手のレベルアップに貢献しているのかと思います。

選手の入団、移籍の変化
 
昭和や平成の中期くらいまではパ・リーグはよくドラフトで指名した選手に入団拒否に遭いました。もちろん入団拒否は本人の権利ですので仕方がないと思います。当時はよく「在京のセ・リーグ(つまり巨人、ヤクルト、横浜大洋)希望」という人がたくさんいました。

FA制度が発足したころは移籍はほぼパ・リーグからセ・リーグに限られていました。この流れが変わったのは近鉄バファローズの野茂投手がMLBに移籍してからでしょう。逆に言えばパ・リーグ出身の選手はMLBで活躍して初めて日本のマスコミに正当に扱われるという状態でした。イチロー選手でさえ日本にいる頃は関西のマスコミが取り上げることは全くありませんでした。

近年になってパ・リーグからパ・リーグへのFAによる移籍もあらわれてきました。この主力選手のセ・リーグへの流出がなくなったこともパ・リーグとセ・リーグの実力差が開いた一因だと個人的には思っています。

選手のモチベーションの差

私自身はこれが一番大きいと思います。
おそらくシーズンが始まれば、今年も既存のマスメディアによるセ・リーグへの偏向報道は変わらないでしょう。

関西では阪神タイガースのドラフト1位である佐藤選手がオープン戦で1本でもホームランを打てば「柳田を越えた」という見出しが躍るでしょう(笑い)。

今の交流戦のシステムだとセ・リーグはいくら負けようが優勝争いにも観客動員にも、メディアへの露出にもあまり関係ありません。

一方既存のマスメディアに冷遇されているパ・リーグは必死に戦います。

亡くなった野村監督が昔、「オープン戦を同一リーグどうしで行うのはいかがなものか。以前はオープン戦は今のように同一リーグで行われることは少なく、新戦力や新しいボールを試すのに都合がよい。皆川投手が新しく覚えたスライダーを王選手で試して、通用したので自信を持った。」と話していました。

何でも「セ・リーグがパ・リーグとオープン戦をやりたがらなくなった。要するに収入が見込める読売ジャイアンツとのオープン戦をパ・リーグにあげたくない。」というのが理由だそうです。

まあ既存のマスメディアの感覚も同様でしょう。したがってセ・リーグがパ・リーグに勝とうというモチベーションが向上する可能性は低いと思います。(あくまでも個人的な感想です)










Posted by 安儀製餡所 at 22:29 野球コメント(0)
ほとんど意味不明の歌ばかりの Music From Big Pink の中で この Long Black Veil だけは歌詞を読んですぐ内容がわかりました。

このアルバムの中で wheels On fire や I Shall Be released といったディランの歌を除くと唯一のカヴァー曲であったからかもしれません。

そういうことで、最初 Music From Big Pink では The Weight などよりよく聴いていました。


この歌は一言でいうと”不倫”という奴です。

今年も日本では芸能人やら政治家(?)とかの不倫騒動というのが結構あり、彼らはなぜかわかりませんが、謝罪会見を開きました。
 


Ten years ago, on a cool dark night
There was someone killed 'neath the town hall light
There were few at the scene, and they all did agree
That the man who ran looked a lot like me

The judge said "Son, what is your alibi?
If you were somewhere else, then you won't have to die"
I spoke not a word, although it meant my life
I had been in the arms of my best friend's wife

She walks these hills in a long black veil
She visits my grave where the night winds wail
Nobody knows, no, and nobody sees
Nobody knows but me

The scaffold was high and eternity neared
She stood in the crowd and shed not a tear
But sometimes at night when the cold wind moans
In a long black veil, she cries over my bones

She walks these hills in a long black veil
She visits my grave where the night winds wail
Nobody knows, no, and nobody sees
Nobody knows but me


この歌の主人公は、都々逸にある「人の女房と枯れ木の枝は、登りつめたら命懸け」というやつで、結果「墓場まで秘密を持っていく」ということになります。

Posted by 安儀製餡所 at 20:21 音楽コメント(0)
「Once Were Brothers」という映画が公開され、、日本でも少しはThe Band のことが話題になっているので、昔からのファンとしては嬉しく思います。



映画の方は残念ながらまだ観ていませんが、生存しているメンバーの一人、ロビー・ロバートソンが語っている内容が中心らしく昔出版されたレヴォン・ヘルムの本と比較すると興味深いと思います。

Music From Big Pink からセカンドアルバムThe Bandへの変化

ファーストアルバムのMusic From Big Pinkでは曲作りにリック・ダンコ、リチャード・マニュエルらがクレジットされていたのが、セカンドアルバムではほぼ全曲がロビー・ロバートソンの作品ということになっています。

これについてはレヴォン・ヘルムの本では

「レコード会社はグループにスターを作りたかったんだ。それでセカンドアルバムのすべての曲がロビー・ロバートソンのものになったんだ。
実際は他のメンバーも参加していたのに。セカンドアルバムのクレジットを見て驚いた。」

この辺りがThe Bandの特殊事情というか、普通のグループならヴォーカリストをスターにすればよいだけなのですが、レコード会社は3人のヴォーカリストではなくソングライターのロビー・ロバートソンをスターにすることを選んだのでしょう。

「このことから他のメンバーは創作意欲を失くしドラッグに溺れていった」あくまでもレヴォン・ヘルムの見解です。

3作目のStage Frightは前2作と比べるとトーンダウンしたという評価です。Stage Frightは他のメンバーの協力はなく、ロビー・ロバートソンが全て作詞作曲しており、この点も影響していると私は思っています。

4作目Cahootsではロビー・ロバートソンはマンネリ感を感じたのかアラン・ツーサンに全面的に協力を依頼します。

5作目ライブアルバムのRock of Ages を挟んで6作目ムーンドッグマチネーはカヴァーアルバムで勿論演奏は素晴らしいのですが創作的には行き詰まりが感じられます。

6作目久しぶりのオリジナルアルバムNorthern Light,Southern Crossではロビー・ロバートソンは獅子奮迅の活躍をし完成度の高いアルバムを造ります。結局これでロビー・ロバートソンはグループとしての存続に限界を感じ、ラストワルツへとつながっていった個人的には思っています。


The Band にはレヴォン・ヘルム、リック・ダンコ、リチャード・マニュエルという3人のヴォーカリストがいたのですが、個人的にはリチャード マニュエルが一番好きでした。

「Music from Big Pink」の一曲目「Tears of  Rage」が印象的なせいか、あるいは月並みですが「I Shall Be Released」に感動したためだったのか。

彼ら自身もグループのリードヴォーカルはリチャード・マニュエルだと言っています。

Whispering Pines



リチャード・マニュエルが後に自分のソロアルバムのタイトルにもしたWhispering Pines。
この美しい歌は彼の作曲によるものです。(作詞はロビー・ロバートソン)

哀愁漂うリチャード・マニュエルのファルセットヴォイス、静かに、そして最後にはドラマチックに響くガース・ハドソンの弾くオルガン。

レヴォン・ヘルムのコーラスも最後に登場し、エンデングを盛り上げていきます。


この歌は「孤独な男が自分から去っていた女性のことを思っている」という内容と解釈されていますが、私にはゴシックロマンというか、「幽霊となった男が自分の妻、あるいは恋人を見守っている歌」とも感じられて仕方ありません。

少しそういうニュアンスを入れて訳してみました。


If you find me in a gloom,
or catch me in a dream
Inside my lonely room,
there is no in between

もし(あなたが)暗闇で私の幻を見たり
それとも、荒涼とした部屋にいる
私の夢を見たら。
そこには二人を隔てるものはない。

Whispering pines
rising of the tide
If only one star shines
That's just enough to get inside

松原のささやき(ざわめき)
満潮
ただ星がひとつ輝いていれば、
何とかあなたの追憶に入っていけるんだ。

I will wait until it all goes 'round
With you in sight,
the lost are found

私(女性)はすべてが廻ってくるのを待っている。
やがてあなたが見えてくる、
失くした人が現れる。


Foghorn through the night
calling out to sea
Protect my only light,
'cause she once belonged to me

夜通し響く霧笛
海に呼びかける
「私のただひとつの灯りを守っておくれ
一度は彼女は私のものだったのだから」。

Let the waves rush in,
let the seagulls cry
For if I live again,
these hopes will never die

打ち寄せる波
カモメの鳴き声
「もし人生をやり直せるなら
今度は希望を失うことは決してしない」。

I(女性) can feel you standing there
But I don't see you anywhere

あなたがすぐ傍にいる気がする。
でもどこにいるのかわからない。


Standing by the well,
wishing for the rains
Reaching to the clouds,
for nothing else remains

(枯れた)井戸のそばに立って
雨乞いをしてる。
雲にまで手を伸ばしたい、
ほかには何も手だてがないのだから 。

Drifting in a daze,
when evening will be done
Try looking through a haze
At an empty house,
in the cold, cold sun

途方に暮れて彷徨い
夕暮れが終わろうとしている時、
見つめている、
冷たい太陽の光が降り注ぐ中、靄のかかった空っぽの家を。

I will wait until it all goes round
With you in sight,
the lost are found

私(女性)はすべてが廻ってくるのを待っている。
やがてあなたが見えてくる、
失くした人が現れる

解釈

リチャード・マニュエルの悲しい最期を知っている今となっては、この美しい曲と彼の歌声を聴くと複雑な気持ちになってしまいます。

曲はⅠ~Ⅲの3部構成になっています。
相変わらずロビー・ロバートソンの詞は意味が分からない所が多いのですが、巧みに韻を踏んでいます。(太字が韻を踏んでいると思われる単語です。)

Ⅰ 
「薄暗闇で見かける」とか「夢に出てくる」とか「松原のざわめき」やら何か
ゴシックロマンを感じさせます。

また、最後の章は何やら輪廻転生を思い起こさせます。

I will wait until it all goes 'round
With you in sight,
the lost are found




 For if I live again ,these hopes will never die.

この文章も何かゴシックロマンを感じさせます。「もし私が再び生きるなら、希望は死ぬことはない。」
つまり「私」は死んでいるともとれます。


Ⅲ 
Standing by the well,
wishing for the rains
Reaching for the clouds,
for nothing else remains

「私」のやるせない気持ちの比喩表現ではないかと思います。


さて、訳してみて何かしっくりこないのが各章の最後の文章です。

ⅠとⅢ

I will wait until it all goes round
With you in sight,
the lost are found

私はすべてが廻ってくるのを待っている。
やがてあなたが見えてくる、
失くした人が現れる。

私としてはこの ”I” はそれまでの男性(幽霊)ではなく、ここだけは女性ならすっきりすると思うのですが。

つまり”the lost”は当然亡くなった男性であり、(生きている)女性の独白ではないかと思うのですが。



I can feel you standing there
But I don't see you anywhere

あなたがすぐ傍にいる気がする。
でもどこにいるのかわからない。

ここも同様で(生きている)女性が亡くなった男性の魂の気配を感じると解釈すればすっきりします。


もっともそんな妙な解釈をせずに、単に「去っていった恋人が帰ってくるのを待っている」なら、 ”I” は男性でもいいと思いますが。(笑い)





Posted by 安儀製餡所 at 22:40 音楽コメント(0)
「サッカー界には2種類の監督しかいない。首になった監督とこれから首になる監督だけだ」と言われる中で、ハインケスは名監督として穏やかに監督業から引退しました。

今や名監督として有名なユップ・ハインケスですが、現役時代はボルシア・M.Gのエースストライカーとして有名でした。



ハインケスのボルシア・M.G時代

G.ネッツアーがクラブを去った後も活躍しブンデスリーガ三連覇(1975,1976,1977)等、数々の栄光に関わると共に、ブンデスリーガ通算385試合出場220得点を記録した。得点記録に関してはブンデスリーガ歴代3位の成績である。

現役時代は日本ではゲルト・.ミュラーに比べて知名度が低かったのはボルシア・M.Gが国際舞台で優勝していないためと、彼自身ワールドカップ特に西ドイツ大会で活躍できなかったためと思われます。

もっとも彼自身はヨーロッパのカップ戦では64試合に出場し51得点(1試合平均0.80得点)を上げた。これはゲルト・ミュラー、エウゼビオに次ぐ3位の成績であり、UEFA3大タイトル(UEFAチャンピオンズカップ、UEFAカップ、UEFAカップウィナーズカップ)の全てで得点王になっています。

しかしながら、ボルシア・M.Gはヨーロッパのカップ戦で優勝がなく、UEFAカップとヨーロッパチャンピオンズカップの決勝でともにケビン・キーガンのいたリヴァプールFCに敗れます。

西ドイツワールドカップ

西ドイツブンデスリーガのB.ミュンヘンとボルシア・M.Gの2強時代は必然的に代表チームでもゲルト・.ミュラーのライヴァルとなります。

ハインケスは1972年の欧州選手権ではFWの一角としてソ連との決勝戦でも出場していたのですが、1974年の西ドイツワールドカップではゲルト・.ミュラーと併用されず、ほとんど出場機会がありませんでした。

なんとなくベッケンバウアーとネッツアーの対立の被害者のような気もしますが。二人の関係がうまくいっていた1972年の欧州選手権では活躍したのですから。

まあ、当時の西ドイツ代表チームには”中盤の王様”の後ろに”皇帝”がいるという感じでした。(笑)

二人のプレースタイルは私の印象ですが、古い競馬ファンなら聞いたことがあると思いますが((笑)、ゲルト・.ミュラーを鉈(なた)の切味とするとハインケスは剃刀の切味という感じです。

ゲルト・.ミュラー

一方、B.ミュンヘンはクライフの抜けたアヤックスに代わりヨーロッパチャンピオンズカップを1974、75,76と3連覇します。当時は優勝クラブはリーグ優勝しなくとも無条件で翌年も出場できました。

ゲルト・.ミュラーは1970年メキシコ ワールドカップで得点王になり、1972年欧州選手権、1974年西ドイツ ワールドカップでも大活躍します。

特に西ドイツ大会では決勝の対オランダ戦で優勝を決めるゴールをあげます。

ボンホフが右サイドを突破してグラウンダーのクロスを入れます。ミュラーは3人のオランダDFに囲まれていますが、クロスが通りトラップしたボールを自分の後ろに残し、振り向きざまシュート、ブロックに来るDFの股間を抜きます。これが決勝点となり、西ドイツは優勝します。

東京12チャンネル

さて余談ですが、この試合は日本で初めて衛星生中継で放送されたワールドカップの決勝戦でした。しかも驚くことにそれがNHKではなく東京12チャンネル(現在のテレビ東京)だったということです。さらに信じられないことに日本のマスコミには全く話題になりませんでした。(今で云う”報道しない自由”という奴です) さいわいにも私はテレビで見ることができました。

これも余談ですが、この後テレビ東京はヨーロッパ選手権の決勝戦も日本で初めて衛星生中継し、私は伝説のファンバステンのボレーシュートを見ることができました。




1972年欧州選手権

この大会はG.ネッツアーとベッケンバウアーの関係が良好で西ドイツが圧倒的な強さで優勝した大会として有名ですが、ミュラーとハインケスもともにFWで出場していました。この当時は3トップが主流でミュラーがCF、ハインケスは左右のウイングの一角という感じです。

西ドイツがウエンブリーでイングランドに完勝したことで知られている準決勝のファーストレグですが、今回初めてフルで観たのですが、この試合ではハインケスは出場していなく、ヘルト、グラボウスキーという典型的なウイングプレーヤーが出場していました。

https://youtu.be/H8h37NSQTKw

このソ連との決勝戦、特に1点目は当時の西ドイツスター達のそろい踏みという感じで圧巻です。
ベッケンバウアーのドリブル突破からネッツアーのボレーシュート、これがゴールポストにあたりリバウンドをハインケスがシュート、ゴールキーパーがはじいたところをミュラーが押し込みます。

https://youtu.be/PQASKhfs9Cs


この動画はスペインとの親善試合で、ハインケスは2得点をあげます。最後にG.ミュラーが珍しく決定機を外します。



現役引退後

ハインケスは西ドイツやスペインなど様々な国のクラブで監督をつとめ、皮肉なことにB.ミュンヘンの監督として大成功を収めます。

ゲルト・.ミュラーは現役引退後、クラブの監督にはなりませんでした。現役引退後、アルコール依存症になったことも影響したのかクラブの監督という過酷な生活を送ることを選ばなかったのでしょう。

1992年から2014年まで、バイエルン・ミュンヘンサテライトチームのアシスタントコーチを務めていました。華々しかった現役時代からは少し寂しい気もしますが。


Posted by 安儀製餡所 at 18:17 サッカーコメント(0)
リヴァプールFCのプレミアリーグ優勝

今年になってのコロナウイルス過による中断を挟んでイングランド プレミアリーグはリヴァプールFCがなんと30年振りに優勝を果たしました。

正直30年振りと聞いて驚きました。その間、チャンピオンズリーグで優勝もしているので低迷していたわけではなくてっきり何回かはリーグ優勝していると思っていました。

とくに日本には前ボルシア・ドルトムントの監督として馴染みの深いドイツ人監督のクロップがイングランドに渡って優勝に導いたのが話題になっているようです。

ケビン・キーガン

自粛期間中は暇なので昔は三菱ダイヤモンドサッカーでしか見れなかった1970~80年代のスター達をYou Tubeで見ていましたが、今から約40年前、クロップとは全く反対にリヴァプールFCのスター ケビン・キーガンは1976-77シーズン,ヨーロッパチャンピオンズカップでボルシア メンヘングラードバッハを破り、優勝を置き土産に西ドイツ(当時)のハンブルガーS.V.に移籍しました。

特に3点目、あのB.フォクツを振り切ってP,K.を獲得したシーンは有名です。もっともB.フォクツも西ドイツ大会でクライフをマークしてから4年という歳月が流れていたのかとも思いますが。

当時の西ドイツブンデスリーガは、B.ミュンヘンとB.メンヘングラードバッハの2強時代からB.メンヘングラードバッハの1強時代となっていました。(B.ミュンヘンは下降線をたどっており、チャンピオンズリーグに専念という感じでした)

その中でハンブルガーS.V.(以下H.S.V.)は1976~77シーズンのUEFAカップウイナーズカップで優勝し、さらなる躍進を期すため ケビン・キーガンを獲得しました。

当時、イングランドリーグ(プレミアリーグではありません)のスターが西ドイツ ブンデスリーガに移籍することは珍しく、かなり非難もあったようですが新たな挑戦を選択しました。

H.S.V.時代

しかしながら、移籍した1977~78シーズンはH.S.V.は全く不振で、10位に終わり、おまけに古巣のリヴァプールFCと対戦したスーパーカップでも惨敗します。

もっともキーガン自身は1978年バロンドール(欧州最優秀選手)を受賞します。

1978~1979シーズン、悲運の天才G.ネッツァーがGM.に就任しチームを立て直し、ブンデスリーガ優勝を果たします。
キーガンも1978年、1979年と2年連続でバロンドール(欧州最優秀選手)を受賞します。

このシーズンからK.H.ルンメニゲの成長、P.ブライトナーの復帰で復活したB.ミュンヘンとの2強時代となります。

1979~1980シーズンはUEFAチャンピオンズカップ は準決勝でスペインのレアル・マドリードを下し決勝進出を果たしますが、決勝ではイングランドのノッティンガム・フォレストFCに0-1で敗退します。

その後、イングランドに戻り1980-1982 サウサンプトン1982-1984 ニューカッスル・ユナイテッドでプレーしました。

引退後は指導者としてはイングランドのクラブと、イングランド代表の監督を歴任しています。

プレースタイル

豊富な運動量とシュート力は勿論、彼のプレーでよく語られるのはヘッディングの強さです。多分身長は170cmくらいだと思うのですが、並み居る長身のディフェンダーに対し
ポジショニングとジャンプのタイミングの巧みさで競り勝ちます。

次の動画はワールドカップ予選のイングランド イタリア戦で、キーガンが1得点、1アシストと大活躍します。特に1点目のヘッディングは鮮やかです。



歌手 ケビン・キーガン

たまたま珍しい動画を見つけました。

まあ、キーガンは歌手としてはロッド・スチュワートにはかなわないようです。(笑)



1:23からがB.フォクツを振り切るシーンです。

Posted by 安儀製餡所 at 21:33 サッカーコメント(0)
NHKの「グレーテルのかまど」でくるみ餅が取り上げられました。

~片岡愛之助のくるみ餅~より

おそらく堺のあの有名店のことだと思います。 

ただし番組で紹介されているレシピがあまりに意外なので、大きなお世話でしょうが少しこの件について書いてみます。

http://www.nhk.or.jp/kamado/recipe/312.html

一番驚いたのは原材料にえんどう豆の生あんが50%、青大豆の生あんを50%を使うという点です。

えんどう豆

私の知っているくるみ餡というのは大豆かあるいは枝豆を原材料とするものです。

極論を言えばえんどう豆が50%も入っているものは「くるみ餡とは言えない。」と思います。

えんどう豆を使うというのは色目的に緑色を残すという点では理にかなっていると思いますが、味的にはどうなのでしょうか?

青大豆のこし餡

次に驚いたのは「青大豆」のこし餡がいとも簡単に登場したことです。

私の知っている限り青大豆の「おから」や「きな粉」ならともかく「こし餡」などは存在しません。

大豆は小豆やえんどう豆と同じ方法で加工してもこし餡にはなりません。

このレシピは堺のお店に確認したのか、あるいは番組独自のものなのでしょうか。



Posted by 安儀製餡所 at 21:10 くるみあんコメント(0)

Kesh jig

2020年06月26日
「異世界居酒屋のぶ」というWOWOWのドラマを観ているとコロナウイルス過の今となっては、この居酒屋でお酒を飲むという日常の光景が

まさに異世界のものと感じられてしまいます。


新しい生活様式とか言われてもやはりピンときません。このドラマのように居酒屋で気兼ねなく楽しく飲める日が来ることを待ち望んでいます。


ドラマの中で何十年振りかで Kesh jig を聴きました。やはりケルト神話は異世界に通じるものがあるのでしょうか。


前にも書いたのですが、Irish Music については日本にはアイルランド人以上に詳しい人が多く、私などが物言うのもおこがましいのですが、

懐かしく思いました。



私でも知っている有名どころのミュージシャンが出演しています。今から思えば楽しそうで、このような時代が再びやってきてほしいものです。



Posted by 安儀製餡所 at 21:20 音楽コメント(0)
さる2月11日 野村克也氏がお亡くなりおになりました。

私のような南海ホークスのファンだった人間にとっては野村氏については複雑な感情もあったのですが、南海ホークスの功労者であったことは間違いなく、謹んでご冥福をお祈りいたしたいと思います。

野村氏の死後、多数の記事が出ましたが、南海ホークスの監督時代についてのものがほとんどありません。まあ、解任で終わったという経緯から黒歴史扱いになっているのか、単にマスコミの勉強不足(笑い)なのか、あるいはマスコミお得意の「報道しない自由」なのかわかりませんが、代わりにここはあくまでも一南海ホークスファンから見た野村克也氏の南海ホークス監督時代について書いてみます。

その前に野村氏を語る上で欠かすことができないで存在である 鶴岡監督について今となってはその偉大さをご存知ない方も多いと思うので少し説明したいと思います。父から聞いた話を思い出しながらウイキペディアを参考にして書いてみます。

東京六大学時代
法政大学進学後はすぐレギュラーを務め、華麗な三塁守備は「東京六大学史上最高」とも言われ、法政大学の連覇に貢献するなど、花形選手・主将として活躍した。新聞の「法政 鶴岡」という見出しの大きさは、この頃に始まった職業野球の球団名の活字の10倍はあったという。.

昭和14年
法政大学を卒業と同時に、創立初年度の南海軍へ三顧の礼をもって迎えられました。

今では信じられないでしょうが当時もっとも人気があったのは東京6大学で、そのスターがプロ野球に入団するなど考えられない時代でした。
プロ野球(職業野球)は読売新聞が行っている胡散臭い興行とみられていました。にもかかわらず、プロ入りを決断させたのは、「(軍隊に)取られたら生きて帰れるかわからない。それ(徴兵)までは好きな野球をやりたい」という思いでした。

昭和15年

召集令状が届く。鶴岡は陸軍高射砲連隊へ入隊し、5年間もの長きに渡って従軍しました。

選手兼任監督時代
昭和21年
復員し、29歳で監督就任を要請され、同年から昭和27年まで選手兼任監督を務めます。戦後の混乱期の中で、野球のみならず選手の生活の面倒まで世話していたことから「鶴岡親分」と呼ばれて慕われました。

鶴岡監督は現代野球に直結する様々な手を打ってきた。大阪タイガースの「ダイナマイト打線」に対抗できる決め手はないかと考え、「足にスランプはないから」という理由で、俊足かつ野球をよく知る選手を集め、昭和21年は1番・安井亀和、2番・河西俊雄、3番・田川豊の「俊足トリオ」で塁を掻き回し、4番・鶴岡、5番・堀井数男が返すという「機動力野球の元祖で、読売ジャイアンツを1勝差でかわし、戦後プロ野球再開初年度の優勝を南海(当時は「グレートリング」)の初優勝で飾ります。この年は選手としても打点王に輝き、MVPを初めて獲得している


昭和22年

大阪タイガースが亡くなった中村鋭一氏や道上洋三氏が言っている所謂「ダイナマイト打線」で優勝します。「ダイナマイト打線」は2リーグ分裂時に別当、土井垣選手を毎日オリオンズに引き抜かれる前年の昭和24年まで続きます。

昭和23年
選手兼任監督ながら青田昇(読売ジャイアンツ)、小鶴誠(大映ユニオンズ)と三つ巴の首位打者争いを繰り広げたが、最終打席に敬遠で歩かされたことで、青田と6毛差の3位に終わった。しかし、チームは2年ぶりに優勝して2度目となるMVPに選出された。

1948年シーズンは南海が優勝し、後に巨人に引き抜かれ以後苦杯をなめさされることになる別所投手も26勝を挙げ優勝に貢献します。

昭和24年

①前年度26勝を挙げたエース別所を読売ジャイアンツに引き抜かれます。
昭和24年の巨人vs南海の試合は殺伐とした雰囲気に包まれ、4月14日の試合では巨人監督の三原脩(当時は三原修)が南海の筒井敬三を殴打する三原ポカリ事件が発生。この事件で三原は無期限の出場停止処分を受けたが、最終的に巨人は戦後初優勝を遂げた。対する南海は4位に終わります.。


まあエースをライバルチームに引き抜かれれば致し方ありません。

②日本球界で初めて二軍を創設し後に、狭き門に600名もの応募者が殺到した。ここから後に岡本、森下、野村、広瀬、皆川といった主力選手が育ってい行きます。

昭和25年

セ・パ2リーグに分裂し、南海ホークスはパリーグに、読売ジャイアンツはセ・リーグに所属することになります。

ただしこの年はパ・リーグは毎日オリオンズ、セ・リーグは松竹ロビンズが優勝し南海、巨人の因縁の対決は日本シリーズでは実現しませんでした。

昭和26~28年 「100万ドルの内野陣」

南海ホークスは機動力と 「100万ドルの内野陣」のキャッチフレーズのあった守備力を武器にパリーグで3連覇を果たしますが、日本シリーズでは
3年連続で引き抜かれた別所投手に阻まれて読売ジャイアンツに敗れます。

昭和26年

①この年はチームとしてリーグ優勝を果たし、選手としても3度目のMVPを獲得した

②南海土建野球部創設

近年増えるプロ野球二軍チームと社会人チームの交流試合の先駆けと言えます。

昭和27年

リーグ連続優勝を達成したが、監督業に専念するため、この年限りで現役を引退しました。

昭和28年

プレーイングマネジャーから監督選任となり、リーグ優勝をを果たしますが、日本シリーズでは三度読売ジャイアンツに敗れます。

昭和29年

①この年は西鉄ライオンズが強力打線で初優勝を飾ります。そして以後西鉄ライオンズと南海ホークスは優勝争いを毎年繰り広げます。

現在は誤解があるようですが、当時のプロ野球で巨人戦を除いて一番お客さんが入ったのは西鉄ー南海戦です。信じられないでしょうが甲子園球場も巨人戦以外はガラガラでした。

②元毎日新聞記者の尾張久次をにプロ野球初の専属スコアラーとして採用し、メジャーリーグにも無かった世界初の「データ野球」を導入。

③野村克也、皆川睦男、宅和本司氏入団

特に宅和投手は1年目からローテーション入りし26勝9敗、防御率1.58と活躍し新人王を受賞した。

昭和30年

①リーグ優勝を果たした南海ホークスは日本シリーズで読売ジャイアンツと対決します。
両者の力の差は縮まってきており、南海ホークスが3勝1敗と優位に立ちますが、読売ジャイアンツがここから3連勝して、結局敗れます。
読売ジャイアンツにあと一歩というところまで迫ったのですが、翌年から西鉄ライオンズが3連覇します。

②広瀬 叔功氏入団

昭和31~33年 西鉄ライオンズの3連覇

中西太、豊田、大下等の強力打線、鉄腕稲尾を擁する西鉄ライオンズが優勝し、日本シリーズでも読売ジャイアンツを下し、3連覇します。

鶴岡監督は西鉄ライオンズに対抗するための大型打線「400フィート打線」をキャッチフレーズにチームを変革していきます。

昭和32年

野村選手が初めてホームラン王を獲得します。

昭和33年

東京六大学のスター、立教大学の長嶋、杉浦両選手が入団予定であったが長嶋茂雄氏は翻意し、杉浦投手のみの入団となる。
杉浦投手は27勝を挙げ新人王を獲得します。

昭和34年

杉浦投手がシーズン38勝4敗、日本シリーズ4連投4連勝で日本一に輝き、「涙の御堂筋パレード」ではリーグ分裂後としては初めて、大阪に日本一の優勝旗を掲げました。
この時、スコアラーによるデータ野球が活躍します。日本シリーズにおける対読売ジャイアンツ戦において、大沢啓二の外野守備がことごとくピンチを救ったことが語られ、これは巨人の各打者のデータによって一球ごとに捕手・野村からサインを出して守備位置を変えるという、それまでの野球に例を見ない作戦が実ったものと言われた。


昭和35年

①この年は大毎オリオンズが「ミサイル打線」と言われた強力打線を擁し優勝します。

②各地区に常駐のスカウトを置き、各地の有力選手を積極的に獲得しようと考えた。、これらはプロ野球最初のスカウト制度の確立ともいわれる

昭和36年

南海ホークスはリーグ優勝を果たしますが、20勝を挙げたエースの杉浦投手がペナントレースの終盤で腕のしびれを訴えて戦線離脱します。
日本シリーズはエース不在の中、読売ジャイアンツと対戦します。

この年の日本シリーズと言えばこれに尽きるでしょう。
https://youtu.be/PvC5PzepAjA

結果、読売ジャイアンツが5年ぶりに日本一になります。(個人的には勝つためには手段を選ばない読売ジャイアンツですので、5年ぶりというところに何かあの判定に意味があるような気がします。)

昭和39年

村上 雅則投手をサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフレズノに野球留学で派遣。同年8月28日、フレズノ・ジャイアンツの監督からメジャー昇格をほのめかされ、翌29日の試合前にメジャー昇格決定を告げられる。そして1日の対ニューヨーク・メッツ戦の8回裏にアジア人として初めてメジャー登板を果たした。

大阪球場建設

本拠地として使用する大阪スタヂアム(大阪球場)の建設に、南海・松浦竹松代表と共に尽力、同球場は生涯にわたって交流を持ったキャピー原田を通じて、GHQ経済科学局長のウィリアム・マーカットに建設許可を下させたものだった

昭和25年1月16日に起工。工費2億円で突貫工事の末、わずか8ヶ月後の9月12日に開場された。

昭和26年7月には関西の球場では初めての照明設備が完成。

昭和27年にはアイススケート場、昭和29年には卓球場、昭和31年には場外馬券売場が併設された。
ほかにも「土井勝「料理教室」も球場内にありました。現在のボールパークの先駆けと言えます。

2軍の創設、育成枠に常駐スカウト、専属スコアラーの導入、卓越した外国人管理術あるいは日本人初のメジャーリーガーを誕生させるなど、鶴岡監督は球界の近代化に大きく寄与した。

鶴岡監督といえば「精神野球」のような印象を持たれるかもしれないが、むしろその逆で、優秀な片腕である蔭山ヘッドコーチによるデータ野球推進など、時代を先取りした新しさ、義理と人情の古めかしさと、鶴岡監督の求心力によって、それらがほどよく交ざり合い強力チームを作り上げていきました。


hana3野村監督誕生まで

昭和39年 

スタンカ投手の大活躍で南海ホークスが日本シリーズで阪神タイガースを破り日本一に輝きます。これをもって鶴岡監督は勇退し
GM(ゼネラルマネージャー)に就任し蔭山ヘッドコーチが監督に就任するというのが当初の予定でした。しかし、鶴岡氏がGMになれば球団を完全に掌握されると恐れた球団サイドは人事異動を理由に約束を反故にします。結果翌40年も同じ体制で臨むことになります。

昭和40年 

野村選手は日本初の3冠王に輝き(読売サイドが難癖をつけて戦後初ということにされてしまいますが)、リーグ優勝を果たしますが、
日本シリーズで読売ジャイアンツに敗れます。(この昭和40年が読売ジャイアンツV9とパリーグにとって暗黒時代の始まりです。)

日本シリーズ敗戦の責任を取る形で鶴岡監督は辞任し、球団側も受理します。この時蔭山ヘッドコーチも辞任届を出すのですが、次期監督に予定していた球団側は慰留に努め、球団側に不信感を持っていた蔭山氏は球団側と契約を交わす形で監督を引き受けます。

しかし,鶴岡氏が東京オリオンズがサンケイスワローズかどちらの監督に就任するか発表するその前日、蔭山氏が急死します。この緊急事態に野村、杉浦、広瀬ら主力選手が鶴岡氏に再登板を懇願し、結果鶴岡氏が折れて再登板となります。この時の話し合いの中で後に野村氏が話していた「三冠王云々」という話が出て遺恨が残ったと野村氏が後に語っていた映像が残っています。

まあ、この辺のところの真実は分かりませんが、今の野村氏のファンには驚きでしょうが、この野村氏が鶴岡氏に言われたとされていることは実は当時の南海ホークスのファンの正直な気持ちです。まあファンというのは移り気で無責任なものですが、何となく野村氏の耳に届いていたかもしれません。

あの頃の南海ホークスの目標はリーグ優勝ではなく日本シリーズで読売ジャイアンツに勝つことでした。しかし、野村選手はビッグゲームにはからっきし弱く、日本シリーズではあまり活躍できませんでした。「杉浦投手だけや」というのは当時のファンの偽らざる心境でしょう。

また、鶴岡氏の再登板という決断も現在なら契約違反になり兼ねない話ですが、当時はそうはならなかったようです。本来ならば球団のフロントが選手に任せたりせず、次期監督と交渉すべきであったのが、ここでも無能さが露呈したと言えます。結果的に球団崩壊につながっていったと言えるでしょう。

昭和41年

南海ホークスはリーグ優勝を果たしますが、日本シリーズで読売ジャイアンツに敗れます。結果この年が鶴岡南海として最後の優勝となります。読売ジャイアンツとの力の差は明らかになってきました。

ON砲が充実期にあり、脇役も揃っていた読売ジャイアンツに対し、南海ホークスは、杉浦投手に往年の力はなく、スタンカ投手も球団を去り、広瀬選手も腱鞘炎に苦しんでいる。このような状況で捕手で4番打者の野村選手にかかる負担はかなりのものであったと想像できます。この辺りも日本シリーズで活躍できなかった要因ではないでしょうか。

昭和42年

西本監督の指導のもと戦力の充実してきた阪急ブレーブスが初優勝を飾ります。この年からパリーグの主役は南海ホークスから阪急ブレーブスに変わります。米田、梶本、石井茂、足立の四本柱、全盛時の力はなかったとはいえ怪物スペンサー、そして長池選手を中心とした西本監督に鍛えられた若手選手の躍進。そして親会社阪急電鉄の強力なバックアップ。

昭和43年

この年は野村選手は結果的に最後となる本塁打王(38本)を獲得、皆川投手が31勝10敗と大活躍し、またメジャーから復帰した村上投手も18勝4敗と活躍し、阪急ブレーブスと最終戦まで優勝争いをしますが、最終戦に敗れ2位となります。

シーズン終了後鶴岡監督は辞任し後任は飯田ヘッドコーチが監督となります。

昭和44年

この年はエース皆川、4番野村が故障でチームは球団始まって以来の最下位となります。まあエースと4番をを欠けば最下位も致し方ないところですが、責任を取って飯田監督は辞任し、野村選手兼任監督が誕生します。

さて、野村氏と鶴岡氏の遺恨として新監督就任に対して「監督は務まるのか」と言われたと後に野村氏が語っている映像も観ましたが、前の「三冠王云々」とどちらが本当なのか、いずれにしても両方とも野村氏が自ら語っていただけなので真実は分かりません。

仮に事実としても私の感想としては自らも選手兼任監督の経験がある鶴岡氏が「監督、捕手、4番打者」は難しい、「まだ選手一本でしたらどうか」という意味にとれるのですが。

hana3野村監督の誕生

昭和45年

この年プロ野球では、南海ホークス野村、阪神タイガース村山、西鉄ライオンズ稲尾、という3人のスタープレイヤーの青年監督が誕生します。
野村氏と村山氏は選手兼任監督で稲尾氏のみが監督専任でした。

野村監督は新機軸をどんどん打ち出していきます。

①「シンキング ベースボール」とブレイザー ヘッドコーチの就任

 後にIT野球として話題になりますが昔の南海ホークスのファンとしては特段珍しいものではありませんでした。 
 また、選手兼任監督の弱点を補うために補佐役として日本初の外国人ヘッドコーチを採用します。

②長池シフト

 昭和42年にパリーグ
に阪急ブレーブス 長池、東映フライヤーズ 大杉、近鉄バファローズ 土井という若手の3人のホームランバッターが登場します。
 これらの打者に対し2塁手を外野に移動させ、外野4人の変則シフトを実行しました。

③永淵シフト

 二刀流でデビューし昭和44年の首位打者、また漫画「あぶさん」のモデルとして有名な永淵選手。
 その対策として内野安打を防ぐため、外野手を一人 内野に移動させて内野手5人の陣形を取りました。

④リリーフエース 佐藤道郎(投手分業制)

 ドラフト1位で入団した佐藤道郎投手をリリーフ専門で起用します。この年佐藤道郎投手は18勝をあげ新人王、防御率1位を獲得します。
 リリーフ投手と言っても現在のように9回1イニングというわけでなく、7~9回抑えるのが当然の時代でした。勉強不足のマスコミは
 江夏投手によって投手分業制を確立したみたいなことを言ってますがその前に佐藤道郎投手を起用し投手分業制を始めています。

⑤富田選手の3番抜擢

 法大三羽ガラスの一人で昨年ドラフト1位で入団した富田勝選手を3番で起用。この年は期待に応え23本塁打を放ち、規定打席にも到達(10位、打率.287)しました。
 
⑥野手の投手起用

 この年実は広瀬選手が投手としてマウンドに上がっています。
元々投手として入団し遊撃手、外野手(センター)として強肩で有名でした。野村監督としては大差のついた阪急ブレーブスとのゲームだったので、ファンサービスで行ったのでしょう。
後年イチローがオールスター戦で登板したのを批判した当時ヤクルトスワローズの監督だった野村氏の昔を知っている南海ホークスのファンは「相変わらず自分のことは棚上げにする人だなあ」と言ったものです。

「世間の注目度の低いパリーグのために仰木監督が考えたアイデアを邪魔するのか。」というのが パリーグファンの気持ちでした。

⑦選手野村の復活

この年は阪急ブレーブス世代交代の時期にあたり不調で、東京オリオンズが優勝し、南海ホークスは大差離されますが2位を確保し、
新監督として上々のスタートを切ります。また、4番捕手野村としてもホームラン42本、打点114、打率.295と大活躍で前年の不振から復活しました。まだまだ南海ホークスの成績は”選手 野村”の活躍に左右される所が大であると言えます。

⑧門田選手の入団

 後にパリーグを代表する強打者となる門田選手も新人選手にもかかわらず積極的に起用されます。当初野村監督は門田選手をホームランバッターと考えていず(これが後に確執を生むことになります)2番バッターとして起用するつもりだったとのことです。しかし門田選手自身は納得せず、またバントが上手くないということからこの計画はとん挫します。

最近元ロッテマリーンズの里崎氏が言っていますが、「アマチュア時代バントしてるようではプロ野球選手になれない。またプロ野球のバッティングコーチは現役時代バントなどしたことのない人なのでバントは教えられない。」なので上手くいかなかったのでしょう。

ただ私は門田選手はわざとバントが出来ない振りを装っていたと思いますが。

もっとも、MLBでは現在は2番バッター最強説もあり、2番にバントなどさせないことも多いですが。

翌年門田選手を3番バッターで起用し、門田選手は打点王を獲得します。

昭和46年

この年は阪急ブレーブスが2年ぶりに優勝を果たします。山田、福本、加藤秀の同期入団の3人が大活躍し、日本シリーズで読売ジャイアンツと対戦します。戦力の充実していた阪急ブレーブス優位の声もありましたが、読売ジャイアンツに敗れます。新エース山田投手が1勝1敗で迎えた第3戦で王選手に逆転サヨナラホームランを撃たれたのが大きく、また福本選手もその足を堀内、森のバッテリーに抑え込まれてしまいます。この時の堀内投手が後の対福本対策のクイックモーションのヒントになったという話です。

①門田選手の3番バッター抜擢

入団2年目の門田選手を前年の富田選手に代わり自分の前を打つ3番バッターに抜擢します。門田選手は期待に応え打率.300、31本塁打、120打点の活躍で打点王を獲得します。

②島本選手の入団と二刀流

この年甲子園のスターであった島本講平投手が箕島高校からドラフト1位で入団します。プロ入り後は打者転向するものと思われていたのですが、野村監督は二刀流での起用を表明します。結果的には万人の予想通り打者に転向します。

南海ホークスは投手陣が踏ん張れず4位に終わります。

昭和47年

①江本投手の移籍

昨年度先発投手の不足を痛感した野村監督は東映フライヤーズから江本投手を獲得します。江本投手は先発の軸として昨年の0勝から16勝と大活躍します。

昭和48年

この年からパリーグは人気回復策として2シーズン制を採用します。南海ホークスは前期に優勝します。後期は実力通り阪急ブレーブスが優勝し、しかも南海ホークスは阪急ブレーブスに対し1勝もできませんでした。

そのような状況の中で迎えたプレーオフで南海ホークスは3勝2敗で阪急ブレーブスを破り優勝します。短期決戦で野村監督の采配が見事に嵌ったと言えます。所謂「弱者の戦略」という奴です。


日本シリーズでは読売ジャイアンツと対戦しますが4勝1敗で敗れます。

①野村再生工場

長嶋茂雄選手に衰えを感じていた読売ジャイアンツとの間にかねてから野村監督と不仲が噂された富田選手と山内、松原(後の福士)両投手のトレードが成立します。野村再生工場と言われ始めたのはこのトレードの大成功によるところが大です。

特に山内投手は大活躍し20勝をあげ前期優勝の立役者の一人となります。

②最後のMVP獲得

この年は選手としては4番打者として打率.309 本塁打28本 打点101 と活躍し、MVPを獲得します。ただし、2シーズン制による強行日程、年齢によるところもあると思うのですが、この年を境に故障がちになり、選手としては下降線をたどります。

昭和49年

南海ホークスはBクラスに終わります。この年の野村監督としてのハイライトはオールスター戦に阪急ブレーブスの代打男 高井選手を監督推薦で選出し、高井選手が代打逆転サヨナラホームランを放ったことです。

野村監督の他球団の選手への深い分析と適所適材で起用した会心の采配と言えるでしょう。

昭和50年

この年あたりからチーム内に不穏な空気が広がってきます。

所謂、伊東沙知代(当時は芳枝)氏の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が目立ってきたと言われています。

門田選手との不仲が噂され、トレードかという話がありましたが、シーズン終了後主力であった江本、西岡両投手が阪神タイガース、中日ドラゴンズにトレードされました。

野村選手も衰えが目立ち、ファンの間では「監督が4番を打ってるようでは阪急ブレーブスには勝てないなあ」とか「福本(選手)が出塁したら、もう盗塁させとけ、変にクイックモーションはなんかして塁をためて大量点取られるくらいなら、1点やっとけ」とか言ってました。(笑)

昭和51年

門田選手や藤原選手が主力となって阪急ブレーブスと優勝争いをしますが、結果として力負けします。基本的に長打力の差が明らかで、「シンキングベースボール」では阪急ブレーブスには勝てないというのがファンの(私の)感想でした。

それでもこの年は南海ホークスの選手がオールスター戦で大活躍し、藤田学投手が新人王を獲得するなど若手選手の成長もあり翌年に期待を持たせます。

①江夏投手の入団

移籍1年目は先発として起用されますが、血行障害や心臓疾患などで長いイニングを投げられず、思うような成績が残せませんでした。

②藤田学投手の新人王獲得

入団3年目だった藤田学投手は先発ローテーション入りし、11勝3敗、防御率1.98(2位)の好成績で新人王に選出されました。

昭和52年

開幕から南海ホークスは快調に首位を走ります。

江夏投手が佐藤道郎投手と交代でリリーフ専門となり、この年セーブ王を獲得します。

しかし、ここである事件が起こります。

私の記憶ではたしか5月ごろだと思うのですが、「野村監督宅に泥棒が入り、相当な金額の貴金属が盗難にあった」というニュースが新聞、テレビを賑わします。

これだけで済めばよかったのですが、マスコミが泥棒が入ったのは「当時同棲状態にあった愛人宅でしかも子供までいる」ということを嗅ぎつけて新聞、週刊誌に載りました。

そしてここから伊東沙知代(当時は芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が表面化し
1977年9月28日、シーズン終了まで2試合を残して解任されます。 

このあたりも球団側が上手く立ち回れば良いものを野村監督解任に抗議するということで、江夏、柏原両選手、高畠コーチの3名の立てこもり事件が起こり、最終的に江夏投手は広島カープに柏原選手は日本ハムファイターズにトレードされ、高畠氏は野村氏とともに、ロッテオリオンズに入団します。

解任理由について、当時野村氏は「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」はなかったと語っていましたが、後の野村沙知代氏の言動、行動からその言葉を信じる人はいないでしょう。

また、監督解任後の記者会見で「元老に飛ばされた」と発言し自分が解任された原因はかねてから確執があると噂された鶴岡氏にあると発言し波紋を呼びます。

この件について鶴岡氏側から「事実無根である」と野村氏側に訂正の要求があり野村氏側が受け入れた形になっています。

当時の南海ホークスのファンで野村氏の発言を信じた人は皆無だったでしょう。「自分が解任されるなどということは前の実力者である鶴岡氏の介入しか考えられない」と思い込み、このような発言になったと想像できます。

「敵は我にあり」

南海ホークスを離れて何年もたつ鶴岡氏が影響力を持つなど考えられず、野村監督の解任は自分の慢心によるところが大と思っています。

野村氏が後に自分の著書で散々書いている「敵は我にあり」ですが、まさにこれが当てはまります。

長年にわたり 監督・4番・捕手 を担ってきたためチームの権力が一人に集中したと言えます。まあ、慢心状態で自分が批判されることなどないと考えていたのでしょう。

しかしながら、年齢とともに選手としての成績は下降線をたどっていきます。また、選手には髭、長髪の禁止など野球以外の制約を課しているのに対し自分は愛人を囲って、しかもその愛人がチーム・選手に対して口出ししてくる。

以上のようなことから求心力は低下し、一部の選手、コーチを除いて孤立していたのでしょう。

この事件から南海ホークスは弱体化し、優勝争いはおろかAクラスになることはありませんでした。やがてダイエーグループに身売りされるのですが、西鉄ライオンズが黒い霧事件から親会社が球団経営に嫌気がさして身売りされたのを見ていたので、これも致し方ないかという感じでした。(まあ、関西のマスコミの阪神タイガース偏向報道には多少の恨みはありますが)

南海ホークスメモリアルギャラリー

大阪スタヂアム跡地のなんばパークスにある「南海ホークスメモリアルギャラリー」には、南海ホークスで活躍した多数の選手を写真・映像・展示資料で紹介しています。しかし、野村氏については一切取り上げていません。

噂では野村氏側から展示の拒否を申し出たということですが。

私としてはやはり野村氏の選手、監督時代の功績を展示してもらいたいと思っています。

もう当時の関係者は全員鬼籍に入られたのであるし、南海電鉄と野村家との和解を第三者に取り持ってもらいたいと思います。

ひと昔前であれば、財界の大物とかフィクサーとかいう人がいたのですが、今ならやはりNPBのコミッショナーがその役を果たすべきであると思います。

何と言っても、プロ野球の功労者であるし、その現役時代の実績をあるべき場所で広く世間、せめて大阪の人に知らしめるべく骨を折ってもらいたいものです。

コミッショナーは読売ジャイアンツの提灯持ちではないということを示してほしいものです。



Posted by 安儀製餡所 at 19:44 野球コメント(0)

ページトップへ