さる2月11日 野村克也氏がお亡くなりおになりました。
私のような南海ホークスのファンだった人間にとっては野村氏については複雑な感情もあったのですが、南海ホークスの功労者であったことは間違いなく、謹んでご冥福をお祈りいたしたいと思います。
野村氏の死後、多数の記事が出ましたが、南海ホークスの監督時代についてのものがほとんどありません。まあ、解任で終わったという経緯から黒歴史扱いになっているのか、単にマスコミの勉強不足(笑い)なのか、あるいはマスコミお得意の「報道しない自由」なのかわかりませんが、代わりにここはあくまでも一南海ホークスファンから見た野村克也氏の南海ホークス監督時代について書いてみます。
その前に野村氏を語る上で欠かすことができないで存在である 鶴岡監督について今となってはその偉大さをご存知ない方も多いと思うので少し説明したいと思います。父から聞いた話を思い出しながらウイキペディアを参考にして書いてみます。
東京六大学時代
法政大学進学後はすぐレギュラーを務め、華麗な三塁守備は「東京六大学史上最高」とも言われ、法政大学の連覇に貢献するなど、花形選手・主将として活躍した。新聞の「法政 鶴岡」という見出しの大きさは、この頃に始まった職業野球の球団名の活字の10倍はあったという。.
昭和14年
法政大学を卒業と同時に、創立初年度の南海軍へ三顧の礼をもって迎えられました。
今では信じられないでしょうが当時もっとも人気があったのは東京6大学で、そのスターがプロ野球に入団するなど考えられない時代でした。
プロ野球(職業野球)は読売新聞が行っている胡散臭い興行とみられていました。にもかかわらず、プロ入りを決断させたのは、「(軍隊に)取られたら生きて帰れるかわからない。それ(徴兵)までは好きな野球をやりたい」という思いでした。
昭和15年
召集令状が届く。鶴岡は陸軍高射砲連隊へ入隊し、5年間もの長きに渡って従軍しました。
選手兼任監督時代
昭和21年
復員し、29歳で監督就任を要請され、同年から昭和27年まで選手兼任監督を務めます。戦後の混乱期の中で、野球のみならず選手の生活の面倒まで世話していたことから「鶴岡親分」と呼ばれて慕われました。
鶴岡監督は現代野球に直結する様々な手を打ってきた。大阪タイガースの「ダイナマイト打線」に対抗できる決め手はないかと考え、「足にスランプはないから」という理由で、俊足かつ野球をよく知る選手を集め、昭和21年は1番・安井亀和、2番・河西俊雄、3番・田川豊の「俊足トリオ」で塁を掻き回し、4番・鶴岡、5番・堀井数男が返すという「機動力野球の元祖で、読売ジャイアンツを1勝差でかわし、戦後プロ野球再開初年度の優勝を南海(当時は「グレートリング」)の初優勝で飾ります。この年は選手としても打点王に輝き、MVPを初めて獲得している
昭和22年
大阪タイガースが亡くなった中村鋭一氏や道上洋三氏が言っている所謂「ダイナマイト打線」で優勝します。「ダイナマイト打線」は2リーグ分裂時に別当、土井垣選手を毎日オリオンズに引き抜かれる前年の昭和24年まで続きます。
昭和23年
選手兼任監督ながら青田昇(読売ジャイアンツ)、小鶴誠(大映ユニオンズ)と三つ巴の首位打者争いを繰り広げたが、最終打席に敬遠で歩かされたことで、青田と6毛差の3位に終わった。しかし、チームは2年ぶりに優勝して2度目となるMVPに選出された。
1948年シーズンは南海が優勝し、後に巨人に引き抜かれ以後苦杯をなめさされることになる別所投手も26勝を挙げ優勝に貢献します。
昭和24年
①前年度26勝を挙げたエース別所を読売ジャイアンツに引き抜かれます。
昭和24年の巨人vs南海の試合は殺伐とした雰囲気に包まれ、4月14日の試合では巨人監督の三原脩(当時は三原修)が南海の筒井敬三を殴打する三原ポカリ事件が発生。この事件で三原は無期限の出場停止処分を受けたが、最終的に巨人は戦後初優勝を遂げた。対する南海は4位に終わります.。
まあエースをライバルチームに引き抜かれれば致し方ありません。
②日本球界で初めて二軍を創設し後に、狭き門に600名もの応募者が殺到した。ここから後に岡本、森下、野村、広瀬、皆川といった主力選手が育ってい行きます。
昭和25年
セ・パ2リーグに分裂し、南海ホークスはパリーグに、読売ジャイアンツはセ・リーグに所属することになります。
ただしこの年はパ・リーグは毎日オリオンズ、セ・リーグは松竹ロビンズが優勝し南海、巨人の因縁の対決は日本シリーズでは実現しませんでした。
昭和26~28年 「100万ドルの内野陣」
南海ホークスは機動力と 「100万ドルの内野陣」のキャッチフレーズのあった守備力を武器にパリーグで3連覇を果たしますが、日本シリーズでは
3年連続で引き抜かれた別所投手に阻まれて読売ジャイアンツに敗れます。
昭和26年
①この年はチームとしてリーグ優勝を果たし、選手としても3度目のMVPを獲得した
②南海土建野球部創設
近年増えるプロ野球二軍チームと社会人チームの交流試合の先駆けと言えます。
昭和27年
リーグ連続優勝を達成したが、監督業に専念するため、この年限りで現役を引退しました。
昭和28年
プレーイングマネジャーから監督選任となり、リーグ優勝をを果たしますが、日本シリーズでは三度読売ジャイアンツに敗れます。
昭和29年
①この年は西鉄ライオンズが強力打線で初優勝を飾ります。そして以後西鉄ライオンズと南海ホークスは優勝争いを毎年繰り広げます。
現在は誤解があるようですが、当時のプロ野球で巨人戦を除いて一番お客さんが入ったのは西鉄ー南海戦です。信じられないでしょうが甲子園球場も巨人戦以外はガラガラでした。
②元毎日新聞記者の尾張久次をにプロ野球初の専属スコアラーとして採用し、メジャーリーグにも無かった世界初の「データ野球」を導入。
③野村克也、皆川睦男、宅和本司氏入団
特に宅和投手は1年目からローテーション入りし26勝9敗、防御率1.58と活躍し新人王を受賞した。
昭和30年
①リーグ優勝を果たした南海ホークスは日本シリーズで読売ジャイアンツと対決します。
両者の力の差は縮まってきており、南海ホークスが3勝1敗と優位に立ちますが、読売ジャイアンツがここから3連勝して、結局敗れます。
読売ジャイアンツにあと一歩というところまで迫ったのですが、翌年から西鉄ライオンズが3連覇します。
②広瀬 叔功氏入団
昭和31~33年 西鉄ライオンズの3連覇
中西太、豊田、大下等の強力打線、鉄腕稲尾を擁する西鉄ライオンズが優勝し、日本シリーズでも読売ジャイアンツを下し、3連覇します。
鶴岡監督は西鉄ライオンズに対抗するための大型打線「400フィート打線」をキャッチフレーズにチームを変革していきます。
昭和32年
野村選手が初めてホームラン王を獲得します。
昭和33年
東京六大学のスター、立教大学の長嶋、杉浦両選手が入団予定であったが長嶋茂雄氏は翻意し、杉浦投手のみの入団となる。
杉浦投手は27勝を挙げ新人王を獲得します。
昭和34年
杉浦投手がシーズン38勝4敗、日本シリーズ4連投4連勝で日本一に輝き、「涙の御堂筋パレード」ではリーグ分裂後としては初めて、大阪に日本一の優勝旗を掲げました。
この時、スコアラーによるデータ野球が活躍します。日本シリーズにおける対読売ジャイアンツ戦において、大沢啓二の外野守備がことごとくピンチを救ったことが語られ、これは巨人の各打者のデータによって一球ごとに捕手・野村からサインを出して守備位置を変えるという、それまでの野球に例を見ない作戦が実ったものと言われた。
昭和35年
①この年は大毎オリオンズが「ミサイル打線」と言われた強力打線を擁し優勝します。
②各地区に常駐のスカウトを置き、各地の有力選手を積極的に獲得しようと考えた。、これらはプロ野球最初のスカウト制度の確立ともいわれる
昭和36年
南海ホークスはリーグ優勝を果たしますが、20勝を挙げたエースの杉浦投手がペナントレースの終盤で腕のしびれを訴えて戦線離脱します。
日本シリーズはエース不在の中、読売ジャイアンツと対戦します。
この年の日本シリーズと言えばこれに尽きるでしょう。
https://youtu.be/PvC5PzepAjA
結果、読売ジャイアンツが5年ぶりに日本一になります。(個人的には勝つためには手段を選ばない読売ジャイアンツですので、5年ぶりというところに何かあの判定に意味があるような気がします。)
昭和39年
村上 雅則投手をサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフレズノに野球留学で派遣。同年8月28日、フレズノ・ジャイアンツの監督からメジャー昇格をほのめかされ、翌29日の試合前にメジャー昇格決定を告げられる。そして1日の対ニューヨーク・メッツ戦の8回裏にアジア人として初めてメジャー登板を果たした。
大阪球場建設
本拠地として使用する大阪スタヂアム(大阪球場)の建設に、南海・松浦竹松代表と共に尽力、同球場は生涯にわたって交流を持ったキャピー原田を通じて、GHQ経済科学局長のウィリアム・マーカットに建設許可を下させたものだった
昭和25年1月16日に起工。工費2億円で突貫工事の末、わずか8ヶ月後の9月12日に開場された。
昭和26年7月には関西の球場では初めての照明設備が完成。
昭和27年にはアイススケート場、昭和29年には卓球場、昭和31年には場外馬券売場が併設された。
ほかにも「土井勝「料理教室」も球場内にありました。現在のボールパークの先駆けと言えます。
2軍の創設、育成枠に常駐スカウト、専属スコアラーの導入、卓越した外国人管理術あるいは日本人初のメジャーリーガーを誕生させるなど、鶴岡監督は球界の近代化に大きく寄与した。
鶴岡監督といえば「精神野球」のような印象を持たれるかもしれないが、むしろその逆で、優秀な片腕である蔭山ヘッドコーチによるデータ野球推進など、時代を先取りした新しさ、義理と人情の古めかしさと、鶴岡監督の求心力によって、それらがほどよく交ざり合い強力チームを作り上げていきました。
野村監督誕生まで
昭和39年
スタンカ投手の大活躍で南海ホークスが日本シリーズで阪神タイガースを破り日本一に輝きます。これをもって鶴岡監督は勇退し
GM(ゼネラルマネージャー)に就任し蔭山ヘッドコーチが監督に就任するというのが当初の予定でした。しかし、鶴岡氏がGMになれば球団を完全に掌握されると恐れた球団サイドは人事異動を理由に約束を反故にします。結果翌40年も同じ体制で臨むことになります。
昭和40年
野村選手は日本初の3冠王に輝き(読売サイドが難癖をつけて戦後初ということにされてしまいますが)、リーグ優勝を果たしますが、
日本シリーズで読売ジャイアンツに敗れます。(この昭和40年が読売ジャイアンツV9とパリーグにとって暗黒時代の始まりです。)
日本シリーズ敗戦の責任を取る形で鶴岡監督は辞任し、球団側も受理します。この時蔭山ヘッドコーチも辞任届を出すのですが、次期監督に予定していた球団側は慰留に努め、球団側に不信感を持っていた蔭山氏は球団側と契約を交わす形で監督を引き受けます。
しかし,鶴岡氏が東京オリオンズがサンケイスワローズかどちらの監督に就任するか発表するその前日、蔭山氏が急死します。この緊急事態に野村、杉浦、広瀬ら主力選手が鶴岡氏に再登板を懇願し、結果鶴岡氏が折れて再登板となります。この時の話し合いの中で後に野村氏が話していた「三冠王云々」という話が出て遺恨が残ったと野村氏が後に語っていた映像が残っています。
まあ、この辺のところの真実は分かりませんが、今の野村氏のファンには驚きでしょうが、この野村氏が鶴岡氏に言われたとされていることは実は当時の南海ホークスのファンの正直な気持ちです。まあファンというのは移り気で無責任なものですが、何となく野村氏の耳に届いていたかもしれません。
あの頃の南海ホークスの目標はリーグ優勝ではなく日本シリーズで読売ジャイアンツに勝つことでした。しかし、野村選手はビッグゲームにはからっきし弱く、日本シリーズではあまり活躍できませんでした。「杉浦投手だけや」というのは当時のファンの偽らざる心境でしょう。
また、鶴岡氏の再登板という決断も現在なら契約違反になり兼ねない話ですが、当時はそうはならなかったようです。本来ならば球団のフロントが選手に任せたりせず、次期監督と交渉すべきであったのが、ここでも無能さが露呈したと言えます。結果的に球団崩壊につながっていったと言えるでしょう。
昭和41年
南海ホークスはリーグ優勝を果たしますが、日本シリーズで読売ジャイアンツに敗れます。結果この年が鶴岡南海として最後の優勝となります。読売ジャイアンツとの力の差は明らかになってきました。
ON砲が充実期にあり、脇役も揃っていた読売ジャイアンツに対し、南海ホークスは、杉浦投手に往年の力はなく、スタンカ投手も球団を去り、広瀬選手も腱鞘炎に苦しんでいる。このような状況で捕手で4番打者の野村選手にかかる負担はかなりのものであったと想像できます。この辺りも日本シリーズで活躍できなかった要因ではないでしょうか。
昭和42年
西本監督の指導のもと戦力の充実してきた阪急ブレーブスが初優勝を飾ります。この年からパリーグの主役は南海ホークスから阪急ブレーブスに変わります。米田、梶本、石井茂、足立の四本柱、全盛時の力はなかったとはいえ怪物スペンサー、そして長池選手を中心とした西本監督に鍛えられた若手選手の躍進。そして親会社阪急電鉄の強力なバックアップ。
昭和43年
この年は野村選手は結果的に最後となる本塁打王(38本)を獲得、皆川投手が31勝10敗と大活躍し、またメジャーから復帰した村上投手も18勝4敗と活躍し、阪急ブレーブスと最終戦まで優勝争いをしますが、最終戦に敗れ2位となります。
シーズン終了後鶴岡監督は辞任し後任は飯田ヘッドコーチが監督となります。
昭和44年
この年はエース皆川、4番野村が故障でチームは球団始まって以来の最下位となります。まあエースと4番をを欠けば最下位も致し方ないところですが、責任を取って飯田監督は辞任し、野村選手兼任監督が誕生します。
さて、野村氏と鶴岡氏の遺恨として新監督就任に対して「監督は務まるのか」と言われたと後に野村氏が語っている映像も観ましたが、前の「三冠王云々」とどちらが本当なのか、いずれにしても両方とも野村氏が自ら語っていただけなので真実は分かりません。
仮に事実としても私の感想としては自らも選手兼任監督の経験がある鶴岡氏が「監督、捕手、4番打者」は難しい、「まだ選手一本でしたらどうか」という意味にとれるのですが。
野村監督の誕生
昭和45年
この年プロ野球では、南海ホークス野村、阪神タイガース村山、西鉄ライオンズ稲尾、という3人のスタープレイヤーの青年監督が誕生します。
野村氏と村山氏は選手兼任監督で稲尾氏のみが監督専任でした。
野村監督は新機軸をどんどん打ち出していきます。
①「シンキング ベースボール」とブレイザー ヘッドコーチの就任
後にIT野球として話題になりますが昔の南海ホークスのファンとしては特段珍しいものではありませんでした。
また、選手兼任監督の弱点を補うために補佐役として日本初の外国人ヘッドコーチを採用します。
②長池シフト
昭和42年にパリーグ
に阪急ブレーブス 長池、東映フライヤーズ 大杉、近鉄バファローズ 土井という若手の3人のホームランバッターが登場します。
これらの打者に対し2塁手を外野に移動させ、外野4人の変則シフトを実行しました。
③永淵シフト
二刀流でデビューし昭和44年の首位打者、また漫画「あぶさん」のモデルとして有名な永淵選手。
その対策として内野安打を防ぐため、外野手を一人 内野に移動させて内野手5人の陣形を取りました。
④リリーフエース 佐藤道郎(投手分業制)
ドラフト1位で入団した佐藤道郎投手をリリーフ専門で起用します。この年佐藤道郎投手は18勝をあげ新人王、防御率1位を獲得します。
リリーフ投手と言っても現在のように9回1イニングというわけでなく、7~9回抑えるのが当然の時代でした。勉強不足のマスコミは
江夏投手によって投手分業制を確立したみたいなことを言ってますがその前に佐藤道郎投手を起用し投手分業制を始めています。
⑤富田選手の3番抜擢
法大三羽ガラスの一人で昨年ドラフト1位で入団した富田勝選手を3番で起用。この年は期待に応え23本塁打を放ち、規定打席にも到達(10位、打率.287)しました。
⑥野手の投手起用
この年実は広瀬選手が投手としてマウンドに上がっています。
元々投手として入団し遊撃手、外野手(センター)として強肩で有名でした。野村監督としては大差のついた阪急ブレーブスとのゲームだったので、ファンサービスで行ったのでしょう。
後年イチローがオールスター戦で登板したのを批判した当時ヤクルトスワローズの監督だった野村氏の昔を知っている南海ホークスのファンは「相変わらず自分のことは棚上げにする人だなあ」と言ったものです。
「世間の注目度の低いパリーグのために仰木監督が考えたアイデアを邪魔するのか。」というのが パリーグファンの気持ちでした。
⑦選手野村の復活
この年は阪急ブレーブス世代交代の時期にあたり不調で、東京オリオンズが優勝し、南海ホークスは大差離されますが2位を確保し、
新監督として上々のスタートを切ります。また、4番捕手野村としてもホームラン42本、打点114、打率.295と大活躍で前年の不振から復活しました。まだまだ南海ホークスの成績は”選手 野村”の活躍に左右される所が大であると言えます。
⑧門田選手の入団
後にパリーグを代表する強打者となる門田選手も新人選手にもかかわらず積極的に起用されます。当初野村監督は門田選手をホームランバッターと考えていず(これが後に確執を生むことになります)2番バッターとして起用するつもりだったとのことです。しかし門田選手自身は納得せず、またバントが上手くないということからこの計画はとん挫します。
最近元ロッテマリーンズの里崎氏が言っていますが、「アマチュア時代バントしてるようではプロ野球選手になれない。またプロ野球のバッティングコーチは現役時代バントなどしたことのない人なのでバントは教えられない。」なので上手くいかなかったのでしょう。
ただ私は門田選手はわざとバントが出来ない振りを装っていたと思いますが。
もっとも、MLBでは現在は2番バッター最強説もあり、2番にバントなどさせないことも多いですが。
翌年門田選手を3番バッターで起用し、門田選手は打点王を獲得します。
昭和46年
この年は阪急ブレーブスが2年ぶりに優勝を果たします。山田、福本、加藤秀の同期入団の3人が大活躍し、日本シリーズで読売ジャイアンツと対戦します。戦力の充実していた阪急ブレーブス優位の声もありましたが、読売ジャイアンツに敗れます。新エース山田投手が1勝1敗で迎えた第3戦で王選手に逆転サヨナラホームランを撃たれたのが大きく、また福本選手もその足を堀内、森のバッテリーに抑え込まれてしまいます。この時の堀内投手が後の対福本対策のクイックモーションのヒントになったという話です。
①門田選手の3番バッター抜擢
入団2年目の門田選手を前年の富田選手に代わり自分の前を打つ3番バッターに抜擢します。門田選手は期待に応え打率.300、31本塁打、120打点の活躍で打点王を獲得します。
②島本選手の入団と二刀流
この年甲子園のスターであった島本講平投手が箕島高校からドラフト1位で入団します。プロ入り後は打者転向するものと思われていたのですが、野村監督は二刀流での起用を表明します。結果的には万人の予想通り打者に転向します。
南海ホークスは投手陣が踏ん張れず4位に終わります。
昭和47年
①江本投手の移籍
昨年度先発投手の不足を痛感した野村監督は東映フライヤーズから江本投手を獲得します。江本投手は先発の軸として昨年の0勝から16勝と大活躍します。
昭和48年
この年からパリーグは人気回復策として2シーズン制を採用します。南海ホークスは前期に優勝します。後期は実力通り阪急ブレーブスが優勝し、しかも南海ホークスは阪急ブレーブスに対し1勝もできませんでした。
そのような状況の中で迎えたプレーオフで南海ホークスは3勝2敗で阪急ブレーブスを破り優勝します。短期決戦で野村監督の采配が見事に嵌ったと言えます。所謂「弱者の戦略」という奴です。
日本シリーズでは読売ジャイアンツと対戦しますが4勝1敗で敗れます。
①野村再生工場
長嶋茂雄選手に衰えを感じていた読売ジャイアンツとの間にかねてから野村監督と不仲が噂された富田選手と山内、松原(後の福士)両投手のトレードが成立します。野村再生工場と言われ始めたのはこのトレードの大成功によるところが大です。
特に山内投手は大活躍し20勝をあげ前期優勝の立役者の一人となります。
②最後のMVP獲得
この年は選手としては4番打者として打率.309 本塁打28本 打点101 と活躍し、MVPを獲得します。ただし、2シーズン制による強行日程、年齢によるところもあると思うのですが、この年を境に故障がちになり、選手としては下降線をたどります。
昭和49年
南海ホークスはBクラスに終わります。この年の野村監督としてのハイライトはオールスター戦に阪急ブレーブスの代打男 高井選手を監督推薦で選出し、高井選手が代打逆転サヨナラホームランを放ったことです。
野村監督の他球団の選手への深い分析と適所適材で起用した会心の采配と言えるでしょう。
昭和50年
この年あたりからチーム内に不穏な空気が広がってきます。
所謂、伊東沙知代(当時は芳枝)氏の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が目立ってきたと言われています。
門田選手との不仲が噂され、トレードかという話がありましたが、シーズン終了後主力であった江本、西岡両投手が阪神タイガース、中日ドラゴンズにトレードされました。
野村選手も衰えが目立ち、ファンの間では「監督が4番を打ってるようでは阪急ブレーブスには勝てないなあ」とか「福本(選手)が出塁したら、もう盗塁させとけ、変にクイックモーションはなんかして塁をためて大量点取られるくらいなら、1点やっとけ」とか言ってました。(笑)
昭和51年
門田選手や藤原選手が主力となって阪急ブレーブスと優勝争いをしますが、結果として力負けします。基本的に長打力の差が明らかで、「シンキングベースボール」では阪急ブレーブスには勝てないというのがファンの(私の)感想でした。
それでもこの年は南海ホークスの選手がオールスター戦で大活躍し、藤田学投手が新人王を獲得するなど若手選手の成長もあり翌年に期待を持たせます。
①江夏投手の入団
移籍1年目は先発として起用されますが、血行障害や心臓疾患などで長いイニングを投げられず、思うような成績が残せませんでした。
②藤田学投手の新人王獲得
入団3年目だった藤田学投手は先発ローテーション入りし、11勝3敗、防御率1.98(2位)の好成績で新人王に選出されました。
昭和52年
開幕から南海ホークスは快調に首位を走ります。
江夏投手が佐藤道郎投手と交代でリリーフ専門となり、この年セーブ王を獲得します。
しかし、ここである事件が起こります。
私の記憶ではたしか5月ごろだと思うのですが、「野村監督宅に泥棒が入り、相当な金額の貴金属が盗難にあった」というニュースが新聞、テレビを賑わします。
これだけで済めばよかったのですが、マスコミが泥棒が入ったのは「当時同棲状態にあった愛人宅でしかも子供までいる」ということを嗅ぎつけて新聞、週刊誌に載りました。
そしてここから伊東沙知代(当時は芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が表面化し
1977年9月28日、シーズン終了まで2試合を残して解任されます。
このあたりも球団側が上手く立ち回れば良いものを野村監督解任に抗議するということで、江夏、柏原両選手、高畠コーチの3名の立てこもり事件が起こり、最終的に江夏投手は広島カープに柏原選手は日本ハムファイターズにトレードされ、高畠氏は野村氏とともに、ロッテオリオンズに入団します。
解任理由について、当時野村氏は「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」はなかったと語っていましたが、後の野村沙知代氏の言動、行動からその言葉を信じる人はいないでしょう。
また、監督解任後の記者会見で「元老に飛ばされた」と発言し自分が解任された原因はかねてから確執があると噂された鶴岡氏にあると発言し波紋を呼びます。
この件について鶴岡氏側から「事実無根である」と野村氏側に訂正の要求があり野村氏側が受け入れた形になっています。
当時の南海ホークスのファンで野村氏の発言を信じた人は皆無だったでしょう。「自分が解任されるなどということは前の実力者である鶴岡氏の介入しか考えられない」と思い込み、このような発言になったと想像できます。
「敵は我にあり」
南海ホークスを離れて何年もたつ鶴岡氏が影響力を持つなど考えられず、野村監督の解任は自分の慢心によるところが大と思っています。
野村氏が後に自分の著書で散々書いている「敵は我にあり」ですが、まさにこれが当てはまります。
長年にわたり 監督・4番・捕手 を担ってきたためチームの権力が一人に集中したと言えます。まあ、慢心状態で自分が批判されることなどないと考えていたのでしょう。
しかしながら、年齢とともに選手としての成績は下降線をたどっていきます。また、選手には髭、長髪の禁止など野球以外の制約を課しているのに対し自分は愛人を囲って、しかもその愛人がチーム・選手に対して口出ししてくる。
以上のようなことから求心力は低下し、一部の選手、コーチを除いて孤立していたのでしょう。
この事件から南海ホークスは弱体化し、優勝争いはおろかAクラスになることはありませんでした。やがてダイエーグループに身売りされるのですが、西鉄ライオンズが黒い霧事件から親会社が球団経営に嫌気がさして身売りされたのを見ていたので、これも致し方ないかという感じでした。(まあ、関西のマスコミの阪神タイガース偏向報道には多少の恨みはありますが)
南海ホークスメモリアルギャラリー
大阪スタヂアム跡地のなんばパークスにある「南海ホークスメモリアルギャラリー」には、南海ホークスで活躍した多数の選手を写真・映像・展示資料で紹介しています。しかし、野村氏については一切取り上げていません。
噂では野村氏側から展示の拒否を申し出たということですが。
私としてはやはり野村氏の選手、監督時代の功績を展示してもらいたいと思っています。
もう当時の関係者は全員鬼籍に入られたのであるし、南海電鉄と野村家との和解を第三者に取り持ってもらいたいと思います。
ひと昔前であれば、財界の大物とかフィクサーとかいう人がいたのですが、今ならやはりNPBのコミッショナーがその役を果たすべきであると思います。
何と言っても、プロ野球の功労者であるし、その現役時代の実績をあるべき場所で広く世間、せめて大阪の人に知らしめるべく骨を折ってもらいたいものです。
コミッショナーは読売ジャイアンツの提灯持ちではないということを示してほしいものです。